にゃこめしの食材博物記

YouTubeチャンネル「古代ローマ食堂へようこそ」の中の人のブログ。古代ローマの食文化についての記事を中心に、様々な歴史や食文化について調べて書いているブログです。

古代ローマ料理 豚肉のワインソース煮とスペルト小麦のお粥

古代ローマの人々がお粥をよく食べたことは前回の記事に書きました。
現在に残る資料であり、美食家アピキウスの名がついた『アピキウスの料理書』にも豚肉のワインソース煮を作り、汁ごと小麦のお粥にかけるという記述があります。

今回はこのワインソース煮を作り、前回の記事で紹介したお粥にかけて食べてみましょう。

なお、アピキウスの料理書には材料の分量は書かれていません。料理する人によって再現される料理が違ってくる可能性があります。このブログでは私が作るとどうなったのか、という視点で読んで頂ければと思います。

また、手に入らない材料は身近なもので代用しております。

なるべく文献に沿った手順で作ったため、同じ調味料が二回に分けて入っていたりと手順に不思議な部分があることもご了承下さい。それでは作りましょう!

豚切り落とし肉 150g
ネギ10g
コリアンダー(パクチー)5g
オリーブオイル大さじ2

「   赤ワイン50cc
A  ポートワイン又はみりん50g
∟ 魚醤 小さじ1

「   セロリの葉10g
  キャラウェイ ひとつまみ
  オレガノ ひとつまみ
  ヒング 少々(耳かき1杯程度、ガーリックパウダーで代用可)
B   胡椒少々
  赤ワイン50g
  ポートワイン又はみりん50g
∟ 魚醤 小さじ2

1.風味付けに使うハーブの用意をしましょう。ネギ10gとコリアンダー5gを束ねて、紐で縛っておきます。

2.鍋にオリーブオイル大さじ2を入れて加熱し、豚肉150グラムを軽く炒めます。

3.豚肉の表面が白くなったら水180gを加え、最初に縛っておいたネギとコリアンダーの束を入れます。

4.Aの調味料(赤ワインを50cc、ポートワイン又はみりん大さじ2杯、魚醤小さじ1杯)を加え、ひと煮立ちしたら火を止めておきます。5.Bのセロリの葉、キャラウェイオレガノ、胡椒、ヒングをすり鉢ですり混ぜ、そこに赤ワイン50cc、濃縮葡萄酒代わりのポートワインを50cc、魚醤を小さじ1杯加えて混ぜ合わせます。

6.お鍋にもう一度火をつけて、5で混ぜ合わせたハーブと調味料を加えて煮立たせます。お酒に弱い方はしっかりアルコール分を飛ばしましょう。火は中火、お鍋から蒸発するアルコール分に火が燃え移らないよう、気をつけて下さい。

7.一旦火を止めて、小麦粉10gを少量の水で溶いたものを回し入れます。よくかき混ぜながら弱火で加熱してとろみをつけたら完成です。

8.炊いておいたスペルト小麦のお粥を盛り付け(お粥については前回の記事参照)、そこにワインソースをかけて、豚肉を盛り付けて完成です。

さあ、試食してみましょう。


スペルト小麦のお粥は香ばしくプチプチとした噛みごたえがあります。
粘り気は少なく、さらりとしており、玄米やソバの実のお粥に似た印象です。
赤ワインソースはワインの程よい甘味や酸味が魚醤や豚肉の脂と渾然一体となり、濃厚な味わいを演出しております。
たくさん入れたハーブは味わいに奥行きを加えてくれています。豚肉もワインのおかげでしっとり柔らかく仕上がりました。

ワインソースとお粥を一緒に食べると、とても親しみやすい味わいです。これ実は、ハヤシライスにとてもよく似た味なんです。
材料にはトマトもタマネギも入っていないのに不思議です。
ワインの酸味と旨味がトマト、ハーブやスパイスがタマネギの役割を果たしたのかもしれません。

古代ローマの庶民たちも時々はお店で、ハヤシライスみたいなお粥を食べたのかもしれませんね。

参考文献/アピーキウス・古代ローマの料理書 ミュラ=ヨコタ宣子訳 三省堂

古代ローマ人とお粥

古代ローマの主食はパンでした。

パンとサーカス」などという言葉は有名ですよね。
政府は小麦を配給して庶民の生活を支え、お金のある有力者達は円形闘技場で催し物を開催し、皆を楽しませました。

しかし、普段はパンを食べるローマ人達でしたが、
実は麦のお粥もローマ人の好きな食べ物でした。

昔からパン食が中心だったギリシャ人に比べて、ローマ人は「お粥すすり」と揶揄されるぐらいによくお粥を食べました。

今回は古代ローマ人ソウルフード、麦のお粥を炊いてみたいと思います。

用意したのは挽き割りのスペルト小麦です。今回はポーランド産のものを購入しました。胚芽やふすまを一部残してあるので薄茶色です。

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鍋に小麦100gと水550ccを入れ、強火にかけます。
水分が沸騰したら弱火にして15分。
吹きこぼれに注意しながら炊き上げます。
麦の粒がふっくら柔らかくなったら出来上がりです。

お金のない庶民はこのお粥をガルムやアレックで味付けしただけのものを食べました。それだけでも素朴で美味しいのですが、やはりおかずが欲しくなりますね。
次回の記事ではもう少し豪華なお粥を作ってみたいと思います。



古代ローマの庶民の住まいと食事

古代ローマの街中に住む庶民達は普段どのように食事を用意していたのでしょうか。

実はローマの街中に住んでいる庶民は自宅で本格的な料理をする事はあまりありませんでした。

と、いうのも広い邸宅に住む金持ちとは違い、庶民の住居はインスラと呼ばれる狭い集合住宅でした。ローマの街中には溢れる人口に対して十分な土地はなく、建物は上へと積み重なるように高層化していきました。インスラも4、5階建てのものが多かったようです。

コロッセウムや水道橋など優れた建築技術を誇った古代ローマですが、インスラなどは粗悪な造りのものも多く、上の階は崩れたりする事もありました。また、火事が起こると上の階の住人ほど逃げ遅れる確率も高くなったといいます。

それぞれの部屋には水道が通っていないので水は水汲み場から汲んで来なくてはなりません。
そのため、上の階になるほど家賃は安かったといいます。
それぞれの部屋には専用のキッチンもないので、食事の用意をしようと思っても、火鉢か七輪のようなものでお湯を沸かしたり、料理やワインを温める事ができる程度でした。

大抵はパンやワインと買ってきたおかずを家で食べるか、外食でした。

ローマの街中には気軽に食事をとる事のできる飲食店が軒を連ねており、焼いた魚や肉などのおかずを買える屋台なども数多く営業していたといわれています。

もちろん、これはローマのような大都市に限った事で、農村部にいけばかまどのある家でそれぞれ料理をしたでしょう。

また、ローマ帝国の属州ではそれぞれの気候や文化があり、食生活も様々でした。

↓インスラの復元模型
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↓インスラの内部
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古代ローマの饗宴に庶民が招待される為の方法

古代ローマといえば豪華な饗宴のイメージがあるかもしれません。

しかし、実際には豪華な食事ができるのは一部の金持ちの貴族などに限られていました。
ローマの街の庶民はなかなかご馳走ざんまいとはいきません。
しかし、運がよければご馳走にありつくチャンスもありました。

古代ローマ人は昼過ぎからは公共浴場、つまりテルマエで過ごしました。

“人生を洗う”と書かれた浴場のモザイク画。

 

ポンペイのミトラス浴場


テルマエは大きな浴室があるのはもちろん、体育館やマッサージ室、それに図書館や談話室も備えた公共施設でした。
ここには貴族も庶民もやってきます。利用料は非常に安く、貧乏人も利用する事ができました。そこで、金持ちの貴族と知り合いになることができれば、チャンスです。
豪華な食事に招待してもらえました。
中には食事の招待を受けられるまで、何軒もテルマエをはしごした人もいたようです

しかし、招待主が気前の良い人ばかりとはかぎりません。
中にはご馳走のいちばん美味しい部分を招待主と親しい仲間だけで食べてしまい、同席した庶民にはご馳走の端っこや質の劣った料理を出す、ひどい招待主もいたのだとか。

詩人マルティアリスはこんな詩を残しています。

マルクス・ウァレリウス・マルティアリスMarcus Valerius Martialis

なぜあんたと同じご馳走を出してはもらえないのだろう
あんたはルクリヌス湖で育った大きな牡蠣を食い、
こっちはムール貝を歯で割って吸っている
あんたにはイグチタケがあるが
こっちにはまずいキノコがあるだけ
あんたのお皿にはヒラメ、こっちには溝魚が1尾
こんがり焼けた雉鳩の腿の肉であんたは腹いっぱいになるだろうが
こっちには籠の中で死んだカササギが出てくる始末だ
あんたと一緒に食事をしているのに
あんた抜きで食べているような気がするのはどういうわけだろう?
スポルトゥラが廃止されたご利益にあずかれるよう、
せめて同じものを食べてはもらえまいか!

庶民の悲哀や不公平への不満が伝わってきます。
こんな詩が約2000年後まで伝わっているのですから、食べ物の恨みというのは恐ろしいものですね。

 

古代ローマの飲食店

古代ローマの街には気軽に食事をとることができる飲食店がたくさんありました。
気軽に軽食をとる事のできる店、バール。ちょうど現在の居酒屋のようなタベルナ。これらの店の遺構は、現在ではギリシア語由来のテルモポリウムと言う言葉で呼ばれる事もあります。

石造りのカウンターにあいている穴には、甕や大鍋をはめ込んで使います。
こうすることで保温性を高め、暖かい料理は温かいまま、冷たい料理は冷たいまま提供できました。
電気もガスも無い時代なのに、本当に洗練されています。

ポンペイのこの遺構では容器から豚肉や魚、カタツムリや牛肉などの成分が検出されました。なかなか栄養満点で美味しそうですね。
カウンターの絵は、メニューの内容を示すと考えられています。鶏やアヒルの料理もあったのかもしれませんね。

宿屋兼食堂のような店はポピーナといいます。ちなみにポピーナでは食事やお酒の提供の他に賭博や売春が行われることもありました。

少し品位は下がるとされたものの、たっぷり食べる事ができるレストランのような店はグルグスティウムと呼ばれました。
さらに下品とされた、ガーネアという暴飲暴食するための店というのもありました。

ローマ人といえば、寝そべって食べる食事風景を思い浮かべる人が多いカモしれません。しかし実は、古代ローマの人々も普段は椅子とテーブルを使い、座って食事をしていました。寝そべって食べるのは正式な饗宴の席のみです。
ローマの飲食店も、大抵はテーブル席がメインです。ちょっと改まった雰囲気の店なら横になって食事をするスペースを持つ店もありました。
上品な市民や貴族達が食事をする場所はトリクリニウムやケーナーティオーと呼ばれ、食事の為の寝台が準備されており、美しい庭園や池が作られていました。
日本の飲食店に例えるとホテルの宴会場かお座敷のある高級料亭のような感じでしょうか。

 

古代ローマの質素な昼食

古代ローマの人々は午前中に仕事を済ませ、午後は軽く昼食をとった後、少し昼寝をしたり、広場や公共浴場などで過ごす、という生活パターンの人が多かったようです。

朝食と同じように、昼食もまた軽く済ませるのが普通でした。
というのも、古代ローマでは一日の中で一番重要な食事は夕食で、朝食や昼食は夕食までもたせる為の軽食という意味合いが強かったようです。

夕食はケーナと呼ばれていました。
ちなみに朝食はイエンタクルム、昼食はプランディウムです。
(遅めの朝食もプランディウムと呼ばれることがあった)

古い時代には一番重要な食事であるケーナはちょうど昼食の時間帯にとったとされています。しかし、時代と共にケーナは3時から4時頃の夕食の時間帯になったといわれています。
さて、簡単な昼食、プランディウムでよく食べられていた食事はどんなものだったのでしょうか。
朝食の習慣についてかいた記事でもご紹介した『学童の一日』という資料の続きを引用してみましょう。

(前略)先生は昼食のためにぼくたちを解放しました。
解放された後で、ぼくは家に帰りました。
ぼくは着物を替え、白いパンをいくらかと、オリーブと、チーズと、干しイチジクと、木の実を食べました。
ぼくは冷たい水を飲みました。
昼食の後で、ぼくは学校に戻りました。

質素な昼食をとる様子が分かります。
昼食には他にも豆のスープや麦のお粥、卵料理、干しブドウなどがよく食べられていました。人によっては肉料理や魚料理を食べることもありました。

また、家で質素な食事をとる他に、古代ローマの街中には手軽に食事をとれる飲食店が多数存在していました。
昼食を外食で済ませる人も多かったようです。

次回の記事では古代ローマの飲食店について紹介していきたいと思います。


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古代ローマの朝の挨拶とスポルトゥラについて

ローマ市民の朝の日課はパトロヌスに朝の挨拶に行く事でした。

パトロヌスとは保護者と訳されますが、親分といったほうが分かりやすいかもしれません。古代ローマでは貴族などお金と権力を持っている人が平民達の生活を援助し、面倒を見ていました。
その代わりにクリエンティスと呼ばれる被保護者、つまり子分にあたる人達は選挙の際に自分のパトロヌスを援護したり、必要に応じて外出の際にお供したりとパトロヌスに対して忠誠を示さなくてはなりません。
このパトロヌスとクリエンティスの関係は古代ローマの社会構造の中で重要な要素となっていました。

さて、クリエンティスは毎朝パトロヌスに対する忠誠を示すため、朝の挨拶に向かいます。すると、パトロヌスからは贈り物を受け取ることができました。
スポルトゥラといわれるその贈り物は小さな籠にパンや果物、ワインやチーズなどが詰め合わされたものでした。
クリエンティスは無料の食事にありつくことができたのです。

スポルトゥラはそのまま朝食に食べても良いし、持って帰ったり、家族と分けることもできました。
また、街頭で売ったり交換してもよかったそうです。

スポルトゥラの想像図