にゃこめしの食材博物記

YouTubeチャンネル「古代ローマ食堂へようこそ」の中の人のブログ。古代ローマの食文化についての記事を中心に、様々な歴史や食文化について調べて書いているブログです。

古代ローマの饗宴に招待されたら2…席順

前回に引き続き古代ローマの饗宴に招待されたら…というテーマで饗宴のマナーについての記事です。
現代日本では会食の時に上座、下座と座るべき場所が立場によって決まっている場合がありますよね。
実は古代ローマの饗宴においても、厳格なルールで席順が決められていました。

 

席順

古代ローマの食事室であるトリクリニウムには3つの大きな寝台がコの字型に並んでいます。一つの寝台には三人ずつ、合計9人が横になる事ができます。
その中でも身分や立場によって横になる場所は決まっていました。

まず、一番上座になるのが奥の寝台です。

  1. 執政官の座
    奥の寝台の中でも向かって左側の席が一番上座とされました。
    一番身分の高い招待客や、本日の主役となる招待客の席です。
    執政官とは共和制ローマの最高官職です。ローマが帝政に移行してからも(※)執政官は名誉職として任命されつづけました。(※実質帝政であっても名目上共和制であるというのが帝政初期の古代ローマアイデンティティなのですが、ここでは詳しく触れません)
  2. 王の座
    その隣は王の座と呼ばれ、二番目に良い席とされました。ここには執政官の座の人物の妻や息子、友人などの席とされることが多かったようです。
    古代ローマの人々にとって王とは皇帝や元老院の許可を得て属州の統治を任された存在(ヘロデ王など)もしくは、異国の王の事です。当然ながら、執政官の方が上座とされ、王の座はその次に良い席という扱いになりました。
  3. 招待主の席
    向かって左側の寝台は招待主とその家族の為の寝台です。
    その中で一番奥は招待主の席です。主賓に一番近く、全体を見わたしやすい場所というわけです。
  4. 招待主の妻や息子の席
  5. 自由民の座
    左側一番手前の席は招待主の家の解放奴隷が寝そべる席とされました。

右側はその他の招待客の席です。

もう少し大きな規模の饗宴の場合はこの寝台三台が一組のトリクリニウムが二組、三組と複数組用いられました。

他にも、食事の為の寝台には半円形をしたスティバディウムというものもありました。
人数が9人と決まっているトリクリニウムと比べて、何人で使用しても良いのが特徴だったようです。

3つの寝台が並べられたトリクリニウム

少しわかりにくいが、中央に半円形のスティバディウムが描かれている
影・パラシートゥス

饗宴には正式な席の他に寝台の端に腰掛ける人々もいました。

饗宴に招待された客は誰か他の人を連れてくる事が許されている場合がありました。しかし、当然ながらそうして連れてきた人の席はありません。
そのような場合、彼らは寝台の端や部屋の隅の椅子に腰掛けて食事をしました。
そうした人々は「影」と呼ばれました。その言葉があらわすとおり、彼らは饗宴のなかで重要ではない存在とされました。

しかし、お世辞が上手い、話が面白い、詩を作れるなどの一芸に秀でた庶民は正式に招待されることはなくても、饗宴の盛り上げ役として「影」のポジションで饗宴に同席して、毎日無料でご馳走を食べることが出来た人もいたのだとか。
こうした饗宴の盛り上げ役はパラシートゥスと呼ばれました。

(パラシートゥスは「食客」と訳されることもありますが、中国史食客とは全く意味が違います。)

ちなみに「影」やパラシートゥスの人数が多すぎて寝台の端に腰かけられない場合は部屋の隅に置かれる椅子に座って食事をしたり、それでも人数が多い場合には壁沿いに立って饗宴に参加したそうです。

古代ローマの饗宴に招待されたら1…服装、ドレスコード

あなたは古代ローマの饗宴に招待されたらどうしますか?

古代ローマ人にとって饗宴とは人脈を拡げたり、維持する為の大切な社交の場でした。

有力者と良好な人間関係を築ければ、良い仕事を回してもらえたり、仕事の話をスムーズに進める事も出来たでしょう。

また、金銭的な援助を受けたり、有力者の権力をバックグラウンドにつけることも出来るかもしれません。

しかし、饗宴の場ではどのように振る舞えばよいのでしょうか?

数回に渡って解説していきたいと思います。

男性

古代ローマの饗宴では長衣(トガ)といわれる衣服で正装して出席しなくてはいけませんでした。長衣(トガ)とは、白くて大きな布を身体に巻きつけ、たくさんのヒダをつけた衣服です。
時代により用いられる布の大きさや形は異なりますが、大きなものだと直径5mの半円形の布を身体に巻き付けたといわれています。

もちろん、一人で着ることはできませんから、着付けをするのは奴隷たちの役割でした。

高価な物だった為、トガを持っていない庶民が饗宴の招待を受けた場合、招待主から借りることもできたそうです。

トガ

また、すべてのローマ人が毎日饗宴に出席していたわけではありません。
友人同士で気さくな夕食会を楽しむ日もあれば、家で質素な夕食をとることもありました。

友人同士など気さくな夕食会の場合、正式なトガではなく、略式のトガを着て出席する事が多かったようです。ローマ人はこれらの衣服を晩餐衣(ウェスティス・ケナトリア)や食堂衣(ウェスティス・トリクリナリア)、饗宴衣(ウェスティス・コンウィウァリス)などと呼んでいたそうです。これらは堅苦しい正装のトガに比べて、少しカジュアルで洒落たイメージでした。

また、普段着や下着にあたるトゥニカという衣服もありました。家で夕食をとる時はもちろん服装に気を遣う必要はありませんから、トゥニカを着て食事をしていたと思われます。

女性

また饗宴の席に招待主や招待客の妻などの女性が同席する事もありました。

古い時代には女性は饗宴の席に姿を見せるべきではないとされましたが、時代が進むにつれて女性も同じく席に着き、食事をしたりお酒を飲んだりするようになりました。

しかし、未婚の女性が一人で出席するような事は基本的にありません。

ごく稀にお色気の要素を含んだ接待の場などで役者や踊り子の女性を伴った饗宴もありました。しかし当時の役者や踊り子はあまり上品でない職業だとされておりました。

古代ローマの男性がトガを着ていたことに対し、女性はそれに相当するストラ(又はパルラ)という衣服がありました。布を身体に巻き付けて複雑なヒダを付けたものです。これは上流階級の女性のための服装でした。

ストラ(パルラ)を身に着けたリウィア・ドルッシラ像

他にはキトンと呼ばれる一枚布をワンピースのような形に留めて着るギリシア風の服装などがあります。

古代ローマの女性は髪型へのこだわりも強く、セットには相当な時間をかけました。
髪にコテを当てて強くパーマをかけ、ボリュームを出した髪型が流行っていたことが、彫刻などから伺えます。

また、貞淑さを表すためのベールをかぶることも上品で良いこととされたようです。

髪型を決めてベールを被った女性の像

 

古代ローマ料理、鶏肉のパルティア風


前回までの記事で古代ローマの謎多き植物シルフィウムやそこから取り出した薬で調味料のラーセルについて説明してきました。

今回は古代ローマで使われ、現在でも手に入る調味料パルティア産のラーセルをたっぷり使った鶏料理を作りましょう。
パルティアにこの料理があったのかは、パルティア側の資料が残っていないので分かりません。しかし、パルティアはラーセルの産地だった為、ローマ人達はこの料理をパルティア風の鶏料理と呼んでいたようです。

なお、参考文献である古代ローマのレシピ集、アピキウスの『料理書』には材料の分量も、詳しい調理手順も書かれていません。料理する人によって少しづつ再現される料理が変わってきます。
このブログでは私が作るとどうなったのか、という視点でお読み頂ければと思います。

なお、手に入りにくい材料は身近なもので代用しております。

材料

鶏モモ肉 一枚(約350g)

セロリ 10g
キャラウェイ 1g
胡椒 少々

しょっつる(他の魚醤でもよい) 小さじ1
赤ワイン 50㏄

ヒング又はアサフェティダ(=ラーセル) 小さじ1

飾り用フェンネルの葉 少々(無くてもよい、ネギやパクチーなどでも可)

1 .鶏モモ肉を3~4cm角の角切りにする

参考文献には「鶏を尻から開き」とありますが、さばくのが面倒なので鶏モモ肉を使用しています。「小さく角型にまとめ形を整える」と書かれている部分は研究者によって解釈が分かれます。鶏を四角い板の上で形を整える、とする研究者もいるようですが、どちらにせよ、どんな状態かよく分かりません。
今回は小さく角型に整えるの部分は、角切りにするという解釈で作ってみます。

2.セロリ10gをみじん切りにしてすり鉢に入れ、キャラウェイ1gとコショウ少々と一緒にすり潰す
参考文献に書かれている「ラヴッィジ」というのはラベージ、別名山のセロリと呼ばれるハーブです。今回はセロリの葉で代用しています。

3.2ですり潰したハーブにしょっつる小さじ1と赤ワイン50㏄を加え、混ぜる
参考文献の「リクァーメン」は古代ローマの魚醤です。今回はしょっつるで代用しています。


4.小さじ1杯のヒングにぬるま湯を100cc加え、よく混ぜて溶かす

さあ、今回の主役であるヒング、つまりパルティア産ラーセルの登場です。ラーセルは普段は隠し味として耳かき1杯程度しか使わないのですが、今回はたっぷり使います。
お湯に溶かすとすごい香りがします。
玉ねぎのような鮮烈な香りの奥に、いりこだしのような深く強い香りも感じます。

 

5.鍋に鶏肉を入れ、3で混ぜておいたハーブと調味料と、4のお湯で溶いたヒングを回しかけ、強火で加熱する

鶏肉の臭みが出ないように、最初は強火で一気に煮立たせましょう。

6.全体が沸騰したらアクを取り、中火にして10分程煮込む

7.鶏肉に火が通ったら仕上げに胡椒をふり、飾り用のハーブをのせる
これで完成です。早速試食してみましょう。

ラーセルたっぷりのスープはとても味わい深くて美味しいです。ダシやコンソメなどを使わずに煮込んだ料理なのにしっかりとダシの旨味を感じます。
鶏肉から旨味が出たのもありますが、ラーセルのおかげで玉ねぎやいりこだしを使ったかのような鮮烈かつ深みのあるスープに仕上がっています。
鶏肉はラーセルやワインの効果でふっくら柔らかく仕上がりました。

添えてあるパンにもワインにも、まぁ、そこそこ合うのですが、個人的にはご飯が欲しくなってしまいます。
ラーセルがダシと玉ねぎの風味で、リクァーメンがお醤油のかわりと考えれば、これはもう卵のない親子丼のようなものです。

ローマ人の好物である麦のお粥にも合いそうな味ですが、白いご飯が欲しくなるのは我々平たい顔族の悲しい習性なのかも知れません。

今回は古代ローマでも盛んに用いられたパルティア産ラーセルの味を堪能できました。それにしても、もっと美味しかったというキュレナイカのシルフィウムはどんな味だったのでしょうか。歴史の謎とロマンは尽きませんね。

 

 

古代地中海世界の謎多き植物シルフィウムの正体

さて、前回の記事まで3回にわたってシルフィウムという植物、そしてその樹脂で作られた薬や調味料のラーセルについて説明してきました。
この植物の正体はいったいどのようなものだったのでしょうか。

まずはパルティア産やシリア産のシルフィウムはセリ科オオウイキョウ属のフェルラ・アサフェティダという植物であることが分かっています。
先程説明した通り、アサフェティダやヒングという名前で現在も調味料として使われています。また、漢方薬としても、阿魏という名前で使われており、消化を助け胃を健やかに保つといわれています。

フェルラ・アサフェティダの植物画(Wikipediaより)

一方でキュレナイカ産のシルフィウムは未だに謎が多い存在です。古代ローマの記録では皇帝ネロに贈られた一本を最後にキュレナイカ産のシルフィウムは姿が見られなくなった、とあります。
しかし、実は絶滅しておらず、現在も存在している植物のどれかではないかと考える研究者もいるのです。

今回の参考文献であるディオスコリデスの『薬物誌』には明治薬科大学名誉教授の岸本良彦氏による注釈が入っており、シルフィウムはフェルラ・ティンギタナという植物だと書かれています。

同じく参考文献のひとつ『食卓の賢人たち』の注釈にもシルフィウムはフェルラ・ティンギタナであると書かれています。
セリ科オオウイキョウ属の植物で、学名の由来になったモロッコの港町タンジールの他、地中海沿岸地域の低木地帯や岩場などに現在でも生育しています。

フェルラ・ティンギタナ(Wikipediaより)

 

余談ですが前々回の記事で少し触れた、古代ローマの軍医で薬学者、ディオスコリデスの記した『薬物誌』で堕胎薬や婦人科系の治療薬として記述されていたシルフィウムに似たサガペノンという植物、こちらはフェルラ・ペルシカという植物ではないかといわれています。
この植物は現在でもその成分が注目され、薬学などの分野で研究が続けられています。

フェルラ・ペルシカの植物画(Wikipediaより)

その他にもシルフィウムの候補となる植物はいくつかあり、タプシア・グミフェラという植物や、フェルラ・ナルテックスという植物もシルフィウムの正体ではないか、とする説があるようです。

タプシア・グミフェラ(Wikipediaより)

フェルラ・ナルテックスの植物画(Wikipediaより)

更に、トルコのイスタンブール大学教授で生薬学の専門家マフムート・ミスキ氏が2021年に発表した論文では、フェルラ・ドルデアナという植物がシルフィウムではないかと書かれています。この植物もセリ科オオウイキョウ属の植物で、トルコの中央アナトリア地方に自生しています。
この論文については「幻の薬草シルフィウム発見か?」というようなタイトルでネットニュースなどに取り上げられたのでご存じの方もいらっしゃるかもしれませんね。

ナショナル・ジオグラフィック日本版2022年10月9日の記事より

ナショナル・ジオグラフィック日本版2022年10月9日の記事より

と、ここまで複数の植物の名前を挙げましたが、どれが正しい説なのかは、結局の所まだ分かっていません。
シルフィウムについて、たくさんの記述は残っているものの、シルフィウムやラーセルの本体は発見されておらず、特定に至らないからです。

私個人の意見としては、シルフィウムはこれらの植物すべてだったのではないかと思っています。
専門家でもない限り、普段、数種類の動植物を区別せずに一つの名前で呼ぶことは良くあることです。私達のよく知っている食材や生物も、実は数種類の生き物だったりします。ましてや分類学など発達していない時代のことですからなおさらです。
ただし、古代ローマの人々もシルフィウムの微妙な違いに気づいており、「キュレナイカのシルフィウム」や「パルティアのシルフィウム」など、産地とともに薬効や香りの違いについて書き記したのだと思います。
今後古代ローマ時代の遺跡から良い状態のシルフィウムが発掘され、成分が分析されれば研究が進むかもしれません。

さて、イスタンブール大学のマフムート・ミスキ氏は料理史研究家のサリー・グレンジャー氏の協力を得て、シルフィウムを使った料理を試食したようです。

ナショナル・ジオグラフィック日本版10月9日の記事より

ニュースの記事によると
"レンズマメを、ハチミツ、酢、コリアンダー、リーキで調理し、フェルラ・ドルデアナで味付けした一品は、複雑で味わい深いものだった。一方、アサフェティダの樹脂を入れた方を味見した人々は顔をしかめ、ほとんど皿に手をつけなかった"
だそうです。
アサフェティダの料理が美味しくなかったのは単に入れすぎか、ミスキ氏の研究を賞賛する為の演出でしょう。
しかし、フェルラ・ドルデアナとフェルラ・アサフェティダの風味が全く違うものであったことは確かなようです。
フェルラ・ドルデアナの味はサリー・グレンジャー氏曰く、
「濃厚なソースでも、シルフィウムのフレーバーが果実や香辛料に隠れてしまうことがありません。青々とした風味があり、ソースに入っている他のハーブの特性を引き立ててくれます」
だそうです。食べてみたいですね。


しかし、残念な事に、このフェルラ・ドルデアナも現在絶滅が危惧されている植物なのです。現在、確認されている本数は600本、そのうち300本は植物園や研究機関で栽培されているそうです。

現代の我々でもキュレナイカ産のラーセルは謎の存在で手に入らない食材のようなので、次回の記事ではフェルラ・アサフェティダ、つまりパルティア産ラーセルをたっぷり使った料理を作ってみたいと思います。

 

参考文献

プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

『薬物誌』
ディオスコリデス著 岸本良彦訳・注 八坂書房 

古代ローマの食卓』
パトリック・ファース著 目羅公和訳 東洋書林

古代ローマの饗宴』
エウジェニア・サルツァ・プリーナ・リコッティ著 武谷なおみ訳 平凡社

『シーザーの晩餐 西洋古代飲食綺譚』
塚田孝雄著 朝日文庫

『食卓の賢人たち』
アテナイオス著 柳沼重剛訳・編

『ハーブ&スパイス辞典』
伊藤進吾 シャンカール・ノグチ監修 誠文堂新光社



未だ謎が残る古代ローマの調味料ラーセル

前回、前々回に続き

美味しすぎて刈り尽くされ、1世紀に絶滅したという謎多き植物シルフィウムの話です。シルフィウムにはいろいろな呼び方がありますが、この記事では便宜上植物自体をシルフィウム、その樹脂で作られた薬や調味料をラーセルと呼ぶことにします。

シルフィウムの描かれたキュレナイカのコイン

ラーセル、それもキュレナイカ(現在のリビア)産のラーセルは古代ローマ料理の大事な調味料として珍重されました。
いったいどのような味と香りだったのか気になりますよね。
古代ローマの医師で薬学者のディオスコリデス曰く

“キュレナイカ産のものは少量でも味わうと全身の体液を動揺させるし匂いも非常に快いので、少量にしないと、味を見たとき口で呼吸ができなくなる。メディア産とシリア産ものはそれより作用が弱く、匂いも臭い”

だそうです。芸能人の食レポも霞むような凄い表現ですね。

古代ローマの人々は古い時代からラーセルの風味を愛し、様々な料理に使ってきました。

紀元前4世紀頃のギリシアには詩人で美食家のアルケストラトスという人物がいましたが、彼はローマの人々がたくさんラーセルを使うことを皮肉ってこう書き残しています。

“ミレトスの魚には驚くべき風味がある。鱗を取れ。それから丸ごと炙れ。穏やかに炙れ。脂の多いソースはどれも使うな。あなたがこの料理をこしらえている時には、シュラクサイやイタリアのギリシア人は側に来させるな。なぜなら彼らはこのデリケートな料理をどう処方するか知らず、チーズを魚の上に隙も無くかけ、酢とシルフィウムを加えて料理を駄目にしてしまうからだ”

アルケストラトスは素材の味を活かしたシンプルな料理が好みだったのでしょうね。一方でラーセルは様々な材料を混ぜ合わせて複雑な味を作り出す時に効果を発揮したのかもしれません。

しかし、そんな愛されたキュレナイカのシルフィウムも乱獲や放牧による環境破壊で数が減っていき、美食に熱狂した1世紀のローマではもう数が少なく貴重品でした。

その時代、美味しい食材のためなら金に糸目をつけなかった伝説の美食家アピキウスですら、手に入れるのが難しいアイテムだったようです。アピキウスの『料理書』の中にはラーセルを長持ちさせる方法が書かれています。

1ウンキア(27g)のラーセルを長持ちさせる方法

ラーセルを20粒の松の実とともに大きなガラスの壺に入れておく。
ラーセルが必要な時にはいつでも、いくつかの松の実をすり潰して用いると食べ物の風味のよさに驚くだろう。
使った数だけ松の実を壺に戻しておく。

アピキウスの『料理書』は一世紀から四世紀の間に時間をかけて成立していったものだとされています。
キュレナイカ産のラーセルはもうほとんど手に入らなくなっていた為、300種類以上あるレシピの内キュレナイカ産のラーセルについて言及されているのはたったの2箇所だけです。
にもかかわらず、ラーセルを使うレシピはたくさん書かれています。

キュレナイカのラーセルを失ったローマ人たちは属州シリアや隣国パルティアから大量のラーセルを輸入することになりました。
博物学プリニウスは『博物誌』にシリアやパルティアのラーセルはキュレナイカのものと香りが全く違い、質も劣る物であった、と書き残しています。

しかし、アピキウスの『料理書』のレシピにもラーセルが多用されていることからもわかるとおり、シリア産やパルティア産のラーセルがいかに香りや味が違ったとしてもやはり、なくてはならない調味料という位置づけだったのでしょう。

実は、シリア産やパルティア産のシルフィウムはアサフェティダという植物であることがわかっており、その樹脂は現在でも調味料として使われています。アサフェティダ、またはヒングという名前です。

アサフェティダ植物画

アサフェティダの樹脂から作られた調味料ヒング

特にインドではヒングをよく使います。

インドの食文化ではカーストや宗教によって食べられるものが厳格に規定されています。厳格なバラモン階級の人々やジャイナ教徒の人々は菜食主義者であるのはもちろん、野菜の中でも根菜を食べません。
しかし、ニンニクやタマネギを使わないと料理は旨味や風味に欠けるものとなってしまいます。そんな時に活躍するのがヒングです。料理に少し入れると、それだけでコクが出て風味を豊かにしてくれます。豆のカレーなどに入れて使われる事が多いそうです。

ヒングはネットで検索するとその匂いの強さから「悪魔の糞」という言葉で紹介されています。実際に匂いを嗅いだ感想は、確かに強い匂いがするものの、ウンコ系の匂いではなく、ガーリックパウダーとオニオンパウダーを足したような香りです。

ヒングはネット通販などで買うことができるので、ヒングことパルティア産のラーセルで古代ローマ気分を味わってみてはいかがでしょうか?

炒め物や肉料理などに相性が良いので、難しく考えず気軽に使うこともできます。

さて、次回は未だに正体がわかっていないキュレナイカ産のシルフィウムについて、

その正体に迫ります!

参考文献

『アピーキウス・古代ローマの料理書』
ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂

プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

『薬物誌』
ディオスコリデス著 岸本良彦訳・注 八坂書房 

古代ローマの食卓』
パトリック・ファース著 目羅公和訳 東洋書林

古代ローマの饗宴』
エウジェニア・サルツァ・プリーナ・リコッティ著 武谷なおみ訳 平凡社

『シーザーの晩餐 西洋古代飲食綺譚』
塚田孝雄著 朝日文庫

『食卓の賢人たち』
アテナイオス著 柳沼重剛訳・編

『ハーブ&スパイス辞典』
伊藤進吾 シャンカール・ノグチ監修 誠文堂新光社

 

 

シルフィウムという薬草…古代ローマの万能薬で堕胎薬

前回の記事は謎多き植物シルフィウムの歴史や伝承について書きました。
今回は薬草としてのシルフィウムについて書いていきたいと思います。
なお、シルフィウムにはラーセルピキウム他様々な呼び方がありますが、この記事では便宜上、植物自体をシルフィウム、その樹脂から作られた薬や調味料をラーセルと呼ぶことにします。

シルフィウムが描かれたキュレナイカ(現在のリビア)のコイン

シルフィウムは古代ローマでは薬草として重宝された存在でした。その効能は幅広く、万能薬として使われたといいます。
ここではその薬効についてご紹介したいと思いますが、これらは古代の記述であり現代医学では誤った知識も多く含まれています。その点に注意してお読みください。

博物学プリニウスはその薬効をこのように列挙しています。

プリニウス(後世に書かれた肖像画)

“老人や婦人にとっておおいに消化の助けになる”
“食物に入れて食べると病気の回復を多いに助ける”

内服薬として身体によさそうです。こんな効能を謳う薬、現代にもありますよね。
プリニウスは更に、ラーセルは外用薬として使うと“その治癒力がてきめんにわかる”といいます。

“飲用すると武器やヘビの毒を中和する。傷の周りにそれを水に溶いて塗る。サソリに刺されたときはそれに油を加える”
“腫れ物には大麦の粉あるいは干しイチジクに混ぜて貼る”
“足の底まめの周りをナイフで切っておいて蝋を混ぜたラーセルを塗るとそれが抜ける”

なんだか痛そうなんですけど…

“ザクロの皮とともに酢に入れて煎じた汁を肛門の周りのおできに用いる”

肛門の周り限定だそうです。

“エジプトマメほどの大きさのものを水に溶いて用いると利尿の効果がある”
やイヌに咬まれた傷にはラーセルをヘンルーダ又は蜂蜜と混ぜて何か粘着する物質を加えて貼りつける”

何かって、何でしょう…?

その他にもうがい薬として使うと咳・痰・扁桃腺に、酢で薄めて手足に塗ると痛風に、蜂蜜と混ぜると腰痛・座骨神経痛に効く、とプリニウスは書き残しています。
何にでも効果がありすぎて、もはやよく分からないですね。


プリニウスとほぼ同じ時代を生きた医者で薬学者のディオスコリデスの記述も見てみましょう。

ディオスコリデス

“軟膏に加えると瘰癧やできものを治し、オリーブ油と混ぜてバップにして貼れば目の周りの黒アザによく、アヤメに混ぜたものは座骨神経質に効く”
“ザクロの皮に入れ酢で煮てパップにして貼れば疣痔を取り除く”
“蜂蜜と混ぜて塗れば視力を良くし、初期の白内障を散らす”

こちらも万能薬として扱われていますね。

“服用すると致死の毒薬に対する解毒剤になる”
“狂犬に咬まれた時は傷口に外用すると良く、あらゆる有毒動物や毒矢の傷に対しても塗ったり服用したりする”

毒消しの効果があるとも信じられていたようです。

“ブドウ酒、コショウ、酢と混ぜて塗りつけると禿げを直す”

これはきっと効果が無いと思います。こんなのでハゲが治るなら皆苦労してません。

さて、ネットで調べるとシルフィウムは堕胎薬という情報が多く見られます。
確かにシルフィウムは婦人科系の処方に用いられる事もあったようです。
プリニウスによれば、

“シルフィウムの葉は子宮を清め、死んだ胎児を下ろす薬に用いられる”
“月経を早めるために、それを柔らかい羊毛に浸しペッサリーとして用いる”

と書かれています。

しかし、ディオスコリデスはシルフィウムの効能に堕胎薬としての効能は書き残していません。
と思いきや、シルフィウムの次の項目にサガペノンという植物が紹介されています。サガペノンはシルフィウムやオオウイキョウに似た姿の植物で、同じように茎の乳液を取り出して使います。
骨折や捻挫、咳や熱などいろいろな症状に効く万能薬である一方で

“蜂蜜水といっしょに服用すると月経を促し、堕胎を引き起こす”

と書かれています。分類学が確立されていない時代、もしかしたらこのサガペノンもシルフィウムと混同されたり区別されることなく使われていたのかもしれません。

また、プリニウスより少し後の時代の二世紀、産婦人科の分野に特に造形が深かったエフェソスのソラノスという医者がいました。

エフェソスのソラノス

ソラノスは著書『婦人科』の中で、妊娠を防ぐために水に溶かしたひよこ豆大のシルフィウムを毎月摂取することを提案しています。

実はウイキョウやオオウイキョウの仲間はフィトエストロゲンという女性ホルモンに似た働きをする成分を含んでいる事が分かっています。

普通に食べるくらいの量なら問題ありませんが、妊娠中の女性が過剰に摂取すると悪影響が出る事おそれがあるといわれています。
そのような効果からシルフィウムが婦人科系の治療薬や堕胎薬として利用されてきたのだと想像できます。

ただし、シルフィウムは確実な堕胎薬というわけでもなく、魔術的な薬草というわけでもありません。

古代の様々な避妊や堕胎の方法の一つとして用いられる事もあった、というのが現実ではないかと思います。

今回の記事は食べ物に関してではなく、古代の薬学についての記事になってしまいました。次回は美味しい調味料としてのシルフィウムについて書きたいと思います。

参考文献

プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

『薬物誌』
ディオスコリデス著 岸本良彦訳・注 八坂書房 

不思議な植物シルフィウムの話

古代地中海世界にはシルフィウムという謎に満ちた植物がありました。
ある時は薬草として、またある時は調味料として珍重され、あまりに価値が高かった為、一世紀中頃には取り尽くされて絶滅し、最後の1本が皇帝に贈られ、その後姿を消したと言われています。
この植物はギリシア語でシルフィウムやシルピオン、
ラテン語でラーセルやラーセルピキウム又はラーセルピティウム
などと呼ばれますが、便宜上この記事では植物自体をシルフィウム、その樹脂からできた薬や調味料をラーセルと呼ぶことしたいとおもいます。
シルフィウムの姿を博物学プリニウスはこう記しています。

太く大きい根と、ウイキョウに似て同じくらい太い茎を持っている。この植物の葉はマスペトゥムと呼ばれていた。それはセロリに酷似しており、種子は葉に似ていて、葉そのものは春になると脱落した

プリニウスとほぼ同時代を生きた、医者で薬学者のディオスコリデスの記述も見てみましょう。

“シルフィウムはシリア、アルメニア、メディア寄りの地方やリビアに生育する。その茎をマスペトンといい、オオウイキョウに似ている。葉はセロリに似ており、種子は幅広で葉のようであり、これはマギュダリスという。”

太い根を持つことや秋ではなく春に葉が落ちる事からおそらく多年草であること、
葉がセロリに似ている記述から深く切れ込んだ鋸歯のある葉だったこと、
種子は葉に似てという記述から、翼果と呼ばれる翼をもった種子をつけていたことがわかります。
これらの特徴とオオウイキョウに似ているという記述からシルフィウムはセリ科オオウイキョウ属の植物の一種だったと考えられています。

オオウイキョウWikipediaより)

オオウイキョウの種子(Wikipediaより)

ちなみに誤解を避けるために説明しておかなくてはいけないのですが、オオウイキョウは漢方で大茴香と呼ばれる植物とは全く別の植物です。別名、八角スターアニスと呼ばれる大茴香トウシキミという植物で、今回出てくるシルフィウムの仲間はセリ科オオウイキョウ属の植物になります。

さて、シルフィウムは古くは古代ギリシアのソロンやソポクレスの作品に名前が登場するそうです。その頃からシルフィウムは古代地中海世界で利用されてきたのでしょう。
古代ギリシアの植物学者テオプラストスの『植物誌』には太い根、セロリに似た葉などその形状や効能について述べられています。

古代ローマ時代に書かれた資料では、シルフィウムの歴史は史実と伝説が混ざったような話から始まります。

紀元前611年の事です。
大シルティス湾付近で樹脂のような色の雨が降りました。黒い豪雨によって湾に面したアフリカの土地は500マイル以上にもわたって水浸しになったといいます。
その水が引いたときからシルフィウムはキュレナイカ、今のリビアの地域にに生えるようになりました。最初は雑草のように一面に茂っていたといいます。

ちょうどその頃(前630年)、古代ギリシャの人々がこの地域にやってきて植民都市を作っていましたので、
シルフィウムはキュレナイカの人々に薬や調味料として利用されるようになり、その利用はだんだん古代ギリシャ世界全域へと広がりました。

キュレネ(キュレナイカ)の遺跡(Wikipediaより)

不思議な事にシルフィウムは人の手で栽培する事ができませんでした。

頑固な雑草として広がり、栽培すると荒れ地へ逃げて行った

と記録に残っています。野生の物を利用するしかないため、他の地域で生産する事は出来ません。
その為シルフィウムはこの地域の特産品となり、交易の為の大事な輸出品になりました。国(都市国家)の象徴として硬貨にその姿が刻まれるようになります。

キュレナイカのコイン(Wikipediaより)

こちらがその硬貨です。
茎がとても太く書かれています。茎の先にはもこもことした花が描かれています。これは小さな花がたくさん集まって咲くタイプの植物だと分かりますね。
こちらの硬貨も同じく立派なシルフィウムです。日本の百円玉には桜が描かれていますが、それと同じくらい国を象徴し、愛された植物だったのでしょう。

シルフィウムの種子が描かれているコイン

こちらの硬貨に刻まれているのはシルフィウムの種子だと言われています。ハート型に見える事、そして詳しくは後で述べますが堕胎薬としてのシルフィウムの薬効と結びついて少しセクシュアルなイメージを持つことからハートマークの起源だと言う説もあります。しかしこの説は信頼性に乏しく、何人かの研究者には否定されています。

太い茎をもつシルフィウムの描かれたコイン(Wikipediaより)

また、この極端に強調された太い茎は男性の生殖器を表しているという説もあります。男性器を豊穣や繁栄のシンボルとする文化は世界中の各地で見られ、けして珍しくはありませんが…この説も今の所は決め手に欠けるようです。皆さんにはどう見えますか?

閑話休題
やがて紀元前69年にキュレナイカの地域は古代ローマの属州となります。

古代ローマの人々もシルフィウムからとれた樹脂をラーセルと呼んで薬や調味料や香料として珍重しました。
紀元前39年に政府は30リブラ(約9.8kg)のラーセルを輸入した事や、カエサルが内戦の初めに国庫から金銀とともに1500リブラ(約491kg)のラーセルを持ち出した事が記録に残っています。かなり貴重品として扱われていたのでしょう。

しかし、この頃からキュレナイカのシルフィウムの数はどんどん減っていきました。

シルフィウムを食べて育った家畜はよく肥えて非常に美味であるとされた為、ある徴税請負人がシルフィウムの生える土地を強奪し、そこでヒツジを放牧してしまいました。ヒツジ達はシルフィウムを食べ尽くし、きれいに無くしてしまったといいます。

紀元1世紀頃にはもうシルフィウムは手にし入りづらい高級品でした。
美味しい食材のためなら金に糸目をつけない美食家アピキウスでさえも、ラーセルを長持ちさせる方法を料理書に記しています。(本人が書いていない可能性もあるが)
美食に熱狂的なローマ人達はついにシルフィウムを採り尽くしてしまいました。

キュレナイカで見つかった最後の1本のシルフィウムはローマに送られ、皇帝ネロに献上されました。
そしてそれ以降、キュレナイカのシルフィウムは二度と発見されることは無かったと言われています。

キュレナイカのシルフィウムを失ったローマ人達はのシリア属州や隣国のパルティアからシルフィウムを輸入する事にしました。
しかしそれらはキュレナイカの物とは香りが違い、かなり質が劣る物だったということです。

参考文献

『アピーキウス・古代ローマの料理書』
ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂

プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

『薬物誌』
ディオスコリデス著 岸本良彦訳・注 八坂書房 

古代ローマの食卓』
パトリック・ファース著 目羅公和訳 東洋書林

古代ローマの饗宴』
エウジェニア・サルツァ・プリーナ・リコッティ著 武谷なおみ訳 平凡社

『シーザーの晩餐 西洋古代飲食綺譚』
塚田孝雄著 朝日文庫