にゃこめしの食材博物記

YouTubeチャンネル「古代ローマ食堂へようこそ」の中の人のブログ。古代ローマの食文化についての記事を中心に、様々な歴史や食文化について調べて書いているブログです。

古代ローマと豚(2)…メス豚への歪んだ愛情

前回に引き続き今回も、豚と古代ローマというテーマにまつわるエピソードの数々を紹介していきたいと思います。

古代ローマで豚がいかに愛されたか、それは数々の記録から伺えます。
博物学プリニウスは豚についてこのように書いています。

“どんな動物でも豚くらい多くの材料を飲食店に提供しているものはない。すべての他の肉はそれぞれ1つの風味しかもたないが、ブタは50の風味を持っている”

古代ローマのレシピ集であるアピキウスのの『料理書』では丸焼きから薄切り肉にはじまり、胃袋、腎臓、イチジクで肥育したレバーなど内蔵を使ったレシピ、
さらには鼻やしっぽや足、未分娩の子宮や乳房など様々な希少部位のレシピが記述されています。

古代ローマの人々は特に雌豚の希少部位を珍重しました。
再びプリニウスの記述に戻るとそこにはもはやマニアックな性癖ではないかと思うほどの、食材へのこだわりが記述されています。

“雌ブタの胃はうまく分娩した後よりも流産した後のほうが味が良い。初めて出産しつつある雌ブタの胃は最上で、分娩で精力を失ってしまった雌ブタのそれは反対だ。分娩した後、その同日に殺さなければ胃は悪い色になり、脂肪もなくなる。”

“分娩の翌日殺されたブタの乳房は最上だ。もっともそれがまだ授乳していなければだが。流産した雌ブタの乳頭は最悪だ”

女性の方、ご気分を悪くされたらすみません。しかし、雌ブタに対する残酷な記述はまだあります。

“雌ブタはラクダと同じ方法で卵巣を抜かれる。すなわち、二日間絶食させた後、前脚に寄って吊り下げ子宮をえぐり出す。そうするとそれらはずっと早く太る”

“ガチョウの肝と同じように雌ブタの肝を処理する方法がある。それはマルクス・アピキウスの発明で雌ブタは干しイチジクをたらふく食わされ腹一杯になったところで、蜂蜜酒を飲まされて直ちに殺されるのだ”

美食家達はブタはこのように肥育したり、肝臓をフォアグラ状態にして食べたようです。
ローマ人、豚に対する愛が深すぎるあまり、若干歪んでいるような気がします。

もちろん、このような特殊なブタの飼育は一部のものであったと思われます。
もう少し健康的に豚を太らせる方法もありました。

“ブナの実を飼料にするとブタが元気になり、その肉は調理しやすいし、軽くて消化もよい。カシワの実をやると、ブタは重くころころになる”

イベリコ・デ・ジョータと呼ばれる高級なイベリコ豚など、ドングリを食べさせて美味しい豚を育てる方法は現在でも使われていますね。

古代ローマの皇帝達もも豚肉に関するエピソードを残しています。
紀元40年、ユダヤ人の使節が自分達の権利を訴えるために3代目皇帝のカリグラの元へやって来た時の事です。
カリグラは別荘を贅沢にあつらえる事に夢中で、必死に訴えるユダヤ使節の方を見向きもしなかったといいます。
そして、使節の方へ向き直ったと思うと一言、こう言ったそうです。
「なぜお前たちは豚の肉を食べないのか?」

カリグラと同じく狂気のエピソードの多い少年皇帝、ヘリオガバルスは美食家アピキウスに影響を受け、豪華な饗宴を開いたといわれています。その食材はラクダの足やフラミンゴの脳などといわれていますが、数々の珍味と並んで豚料理も提供されています。文献によると

“彼は10日間立て続けに野生の雌豚の乳房に子宮が付着しているものを一日30頭ずつ供した”

だそうです。
アピキウスの料理書にもウィテリウス風の子豚やトラヤヌス風の子豚など皇帝の名が着いた子豚料理のレシピが収録されています。

古代ローマの豚料理といえば、小説『サトゥリコン』に書かれているものも有名です。
成り上がり者で金持ちのトリマルキオという人物が開く饗宴は、招待客を驚かせるための工夫を凝らした料理が次から次へと出てきます。
その饗宴で提供された豚の丸焼きは、腹を割くと中から内臓に見立てたソーセージがこぼれ出てくるのでした。
古代ローマ人、豚が好きすぎですが、やはりその愛情はちょっと歪んでいるような気がするのは私だけでしょうか?

参考文献

プリニウスの博物誌』プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

古代ローマの食卓』パトリック・ファース著 目羅公和訳 東洋書林

『豚肉の歴史』キャサリン・M・ロジャー著 伊藤綺訳 原書房

『ガイウスへの使節フィロン著 秦剛平訳 京都大学学術出版界

『アピーキウス・古代ローマの料理書』ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂

 

古代ローマ人と豚…(1)選ばれし家畜、豚

今回から数回にわたって豚と古代ローマというちょっと変わったテーマの記事を書いてみたいと思います。

古代ローマで最もよく利用された家畜は豚でした。庶民の食卓から贅沢を極めた饗宴まで豚肉の料理は登場します。

ではなぜ、牛や羊ではなく古代ローマでは豚が選ばれたのでしょうか。

豚の家畜化の歴史

豚の家畜化と飼育は紀元前10000~12000年頃、南西アジアで始まったとされています。ほぼ同じ頃、トルコ東部の遺跡でもイノシシを囲って飼い始めた事が分かっています。
この二つの地域が豚の家畜化のルーツとされてきましたが、
近年ではさらに、ヨーロッパ各地やその他の地域でも独自にイノシシを家畜化していた事が遺伝子解析から分かっています。
これらの家畜化され始めた豚は人の移動に伴って他の地域の豚と交雑したり、野生のイノシシと交雑したりと複雑な過程を経ながら現在、我々の思う豚へと変化したといわれています。

豚と同じく紀元前10000年頃にはヤギと羊が、紀元前9000~7000年頃には牛が家畜化されました。そしてロバ、馬、ラクダと続きます。

古代ローマで豚がよく利用された3つの理由 

ではなぜ、古代ローマ人はこれらの家畜の中から特に豚肉を好んだのでしょうか。
理由の一つ目は家畜が貴重な労働力であることです。

馬はとても貴重です。軍隊に馬は欠かせませんし、古代ローマでは戦車競争も大人気でしたり。何でも食べる古代ローマ人ですが、馬を食べる事はまず無かったようです。
ロバは背に荷物を載せたり荷車を引いたりと運搬に欠かせない存在でした。

では、牛どうでしょう。
元々農耕民族であったローマ人は牛をとても大切にしました。
雄牛は畑を耕す鋤を引き、雌牛はミルクを出します。古い時代、ローマが共和制になって2、3世紀の間は食べる為でも、神々に捧げる生贄にする為でも牛を屠殺する事は禁じられていたといわれています。
その後は牛を生贄にする事は認められたようですが、捧げる時は雌牛を選び、雄牛は大切な労働力として手元に残す事が多かったといわれています。
古代ローマでは牛肉を食べる事もありましたが、普段から食べる肉類という扱いではありませんでした。
アピキウスの料理書には豚を使う料理が42品が載っているのに対して牛肉料理はたったの4品です。

数ある家畜の中から豚が選ばれた2つ目の理由はその雑食性です。
完全な草食動物であるヤギや羊を育てるには広大な牧草地が必要となります。ローマ帝国の属州では草原が広がる場所もありましたが、ローマの街近郊の土地はヤギや羊の飼育にあまり向いているとはいえませんでした。
一方豚は雑食性なので人間の食べ残しや野菜くずなどで育てる事ができ、広い牧草地も必要ありません。都市化が進んだローマの周辺地域で効率よく育てる事ができたでしょう。

さて、家畜の中から豚が選ばれた理由の3つ目は繁殖力と成長の早さです。
豚は1年に2度出産する事ができ、一度に10頭もの子豚を生みます。他の家畜が一度に1~2頭の子供しか産まない事に比べるとその繁殖力は群を抜いています。更にその子豚は6ヶ月で成長し、雌豚は生後1年で子を産む事ができます。
家畜の中でもチート級の生産性は人口が多いローマや近郊の都市の人々の需要を満たすのに大きな役割を果たした事でしょう。

と、ここまで豚の性質により古代ローマでは豚肉が多いに利用されてきたのだと説明しました。
しかし何より、豚肉の味が古代ローマの人々の好みに合ったのではないかと思います。食材の為なら金に糸目をつけない美食家達の饗宴にも豚肉料理が提供されていたからです。
家禽、ヤギ、羊、牛、それに鹿や鴨などのジビエ。どれも古代ローマで食べられてきた食材ですが、豚肉はちょっと特別だったようです。

参考文献

『人類と家畜の世界史』
ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 河出書房新社

『シリーズ家畜の科学2 ブタの科学』
鈴木啓一編 朝倉書店

『豚肉の歴史』
キャサリン・M・ロジャー著 伊藤 綺訳 原書房

古代ローマの食卓』
パトリック・ファース著 目羅公和訳 東洋書林

 

 

古代ローマ料理「豚の脳みそのパテ風」資料に基づいた再現レシピ

 
今日は豚の脳が手に入ったので、 豚の脳と卵を使ったパテを作りましょう。

これが豚の脳です。小型種の豚さんだったのか、 案外小さいですね。 

こちらが参考文献であるアピキウスの『料理書』に書かれたレシピです。

ご覧の通り、アピキウスの料理書には材料の分量も、 詳しい調理手順も書かれていません。 料理人によって少しずつ再現される料理が変わってきます。
このブログは、私が作るとどうなるのか、 という視点でご覧いただければと思います。
尚、手に入りにくい材料は身近なもので代用しています。
今回はラヴィッジというハーブはセロリで、古代ローマの魚醤リクァーメンはサバのいしるで代用しております。

それでは、作ってみましょう!
 
材料
豚の脳 200g(今回は2個)
卵 2個

セロリの葉 10g
オレガノ 小さじ1
魚醤(サバのいしる) 小さじ2

 

  1. 沸騰したお湯に塩を入れ、豚の脳2個を下茹でします。 茹で上がった脳は適当な大きさにぶつ切りにしておきます。

    ぶつ切りにした脳
  2. すべての材料(豚の脳、ハーブ・調味料、卵)をミキサーに入れ、滑らかになるまですり潰す
    (料理書にはこね鉢(モルタリウム)を使うとありましたが、ミキサーを使います)

  3. フライパンに焦げ付き防止のクッキングシートを乗せ、ミ キサーにかけた材料を注ぎ、ヘラなどで平らに慣らします。 蓋をして弱火で5分程度、しっかり固まるまで加熱する。

  4. 粗熱が取れたら食べやすいサイズに切っておく

さて、 料理書にはこの料理に合わせるソースのレシピも書かれています。
こちらも作ってみます。
胡椒少々、ラヴィッジの代わりのセロリ10g、 オレガノ小さじ1に水100㏄を加え、ミキサーですり潰します。
よく混ぜ合わせたらソース鍋で煮立て、水で溶いた小麦粉でとろみをつければ完成です。
皆様、お気づきでしょうか?
ソースのレシピには調味料が一切書かれていません。 イヤな予感がいたします。

完成した脳のパテをお皿に盛り付け、
チャレンジしたい方のみソースを添えて完成です。

さぁ、試食してみましょう!

豚の脳自体はクセがなく、 魚の白子や木綿豆腐のように滑らかでクリーミーな味がします。 裏面がうっすら焼き色がつく程度に焼いたことで何ともよい香りが しています。
胡椒やハーブとの相性もバッチリです。

卵焼きとソーセージの間のような、 何とも不思議ですが親しみやすい味です。
卵は1個にしておいたほうが滑らかに仕上がったかもしれません。

問題はこちらのソースです。
マズイ、もう一杯! 青汁の味がします。
いやぁ、美味しくありません。

古代からレシピが伝わる過程で材料が抜け落ちてしまったのでしょ う。 魚醤と蜂蜜で味を整えれば食べられる味になったかもしれません。

しかし、 ソースがなくても脳のパテのほうは十分美味しく食べられます。
材料の調達以外は比較的簡単に作れますので、 是非作ってみて下さい。

 


参考文献/

『アピーキウス古代ローマの料理書』 ミュラ・ヨコタ宣子訳 三省堂



古代ローマの饗宴…メニュー構成と料理

今回は古代ローマの饗宴のメニュー構成はどのようなものだったのか、
気になる料理はどんなものだったのか紹介していきたいと思います。

饗宴が始まるとまずは食前酒を全員で回し飲みします。
食前酒は水で薄めたワインにニガヨモギヤ薔薇で香りをつけたものや、蜂蜜で入りのワインが飲まれました。胃腸の健康を促進し、食欲を増す効果があると思われていたようです。回し飲みにするのは来客達に一体感を持たせる意味がありました。

さぁ、料理の登場です。
古代ローマの饗宴の料理は前菜、主菜、デザートの三部で構成されており、それぞれ数品ずつ用意されるのが普通でした。

  • グスターティオ(前菜)
  • メンサ・プリマ(主菜)
  • メンサ・セクンダ(デザート、食後酒)

まずは前菜です。
前菜で欠かせないものは卵です。
古代ローマには「卵からリンゴまで」という言いまわしがあります。これは初めから終わりまでという意味です。この言葉が表すとおり、古代ローマの饗宴の前菜には卵が好んで食べられていました。
シンプルなゆで玉子や半熟卵で食べることが多かったようですが、パティナという平皿で焼き上げたオムレツのような料理もありました。
他に前菜によく食べられていたものはレタスなど新鮮な野菜を使ったサラダ、オリーブやチーズ、カタツムリなどです。
小さな肉料理がでることもありました。ハムやソーセージ、
変わったものではヤマネ料理などが提供されました。

続いては主菜が数品、メインディッシュにあたる料理です。
質素でささやかな宴会の場合はお粥や豆のスープ、野菜料理などが主菜となることもありましたが、豪華な宴会の場合はやはり主役は肉と魚です。

中でも豚肉や家禽の料理が定番でした。これらは丸焼きのような大きい状態でテーブルに運ばれ、切り分け係の奴隷によって食べやすいサイズにされます。中には音楽に合わせてパフォーマンスをしながら料理を切り分ける者もいました。

野鳥や鹿などのジビエ、ソーセージやベーコン、エビや魚などの魚介類などが供される事もありました。
豪華な宴会になれば招待主は来客達を驚かせるために趣向を凝らします。孔雀やフラミンゴ、ウツボなどがその姿がわかるように皿に盛られました。

また、料理はすべて食べきる前に下げらるのが普通でした。食べきれない量の料理を用意してもてなしたためと、影たちが食べられるようにするためです。
その後に残ったものは召使いや奴隷達が食べます。
また、饗宴の料理はマッパエやマンテレと呼ばれるナプキンに包んで持って帰る事ができました。持って帰った料理は後で食べたり、家族に分け与えたりすることができます。また、街角で売ってお金に変えることもできたようです。
中にはマッパエに料理をたくさん詰め込む、みっともない客もいたのだとか。

食事の間には音楽や詩の朗読、寸劇などが行われ、参加者を楽しませました。

さて、メインディッシュ数品が終わると一旦すべての料理が片付けられ、仕切り直しです。ここで神々に捧げる儀式を挟むこともあります。

様々なデザートが運ばれてきたら、お酒とおしゃべりを楽しむ時間が始まります。デザートには新鮮でよく熟した季節の果物は欠かせません。
干しぶどうやナツメヤシなどのドライフルーツなども定番です。ケーキやシャーベットが出てくる事もありました。
デザートといえば甘いもの、と思ってしまいますが、ここでまた肉料理が出てくる事もありました。他にもオリーブや球根、チーズなどが出された事から、お酒を楽しむためのおつまみのような役割もあったのでしょう。


さて、ここまで3部構成の饗宴について解説してきましたが、もっと盛大な饗宴は7部構成になっていました。

  • 食前酒
  • グスターティオ(前菜)
  • ケーナ・プリマ(最初の主菜)
  • ケーナ・アルテラ(二番目の主菜)
  • メンサ・セクンダ(デザートとワイン)
  • コミッサーティオ(軽食付き酒宴)
  • ウェスベルナ(夜食)

食前酒、前菜、最初の主菜、二番目の主菜、
ここで仕切り直してワインとデザートです。
その次にはコミッサーティオという軽食付きの酒宴が待っています。
夕暮れ時から始まった饗宴は真夜中をとうに過ぎ、明け方近くに夜食を食べたらようやくお開きです。

こんなに饗宴、皆さんは出席してみたいですか?私はちょっとしんどそうなので遠慮しておきたいですね…。

古代ローマの饗宴に招待されたら3…テーブルマナー

数回に渡り、古代ローマの饗宴に招待されたら、と題して服装、席順と紹介してきました。
今回は饗宴のテーブルマナーを紹介していきましょう。

まずは体の左側を下にして横になります。左肘で身体を支え、右手で食べたり飲んだりします。

料理は基本的に指でつまめるサイズに作られているか、大きいものは給仕係の奴隷が切り分けてくれるので、それを手掴みで食べます。右手の指先だけを使うのが良いとされ、手のひら全体で食べ物を掴むのは野蛮な事だとされました。

スープやお粥が提供される場合はスプーンが使われました。スプーンには様々な種類があり、大きいものや小さいもの、コクレアルと呼ばれるカタツムリ専用のものもありました。

コクレアルと呼ばれるカタツムリ専用スプーン。柄が尖っている。

他には食べ物を混ぜたり突き刺したりするために使われた、先の尖った棒状の食器もありました。これは大きいものはルディクス、小さいものはルディクラと呼ばれました。

取り皿を使うこともあったようです。
大抵はあまり高価なものは使われず、素焼きのシンプルな皿を使い捨てにするか、硬くて平たいパンを取り皿にしました。

食べ物を落としてしまうのは不吉な事だとされました。そして、落ちた食べ物は拾ってはいけません。
食事室の床は死霊達の領域です。
ローマ人はより古い時代には家族が亡くなると家の床下に埋める風習があったとされます。ローマの都市化が進むにつれてその風習は無くなりましたが、その後も食事室の床は冥界を表すとされました。
ただし、肉や魚の骨などの食べかすはそのまま床に投げ捨てます。そしてそれを片づけるのは奴隷の役割でした。

散らかった床のモザイク画

こちらのモザイク画は食事室の床部分の装飾でした。魚の頭などや食べかすが描かれているのは散らかり具合をごまかす為とも、死霊達を慰める為とも言われています。

食事中のゲップについては研究者によって意見が分かれています。現代に残る資料では「大きな音を立ててゲップをした」という記述が何ヶ所もあります。
これをその人物が下品で卑しい人物であることを表現していると捉えるか、ゲップをするのが当然又は良いこととされる文化であったと捉えるかで解釈が全く違ってしまう為です。
今回参考にした文献の中ではゲップ肯定派が多かったです。
現代でも中国や中東の一部には食事に満足していることを示すためにゲップをする文化が残っていますね。

食事中のオナラに関しては、合法です。
4代目皇帝クラウディウスは、食事中に臭い瓦斯やおならを出すのを大目に見ると告示しました。恥ずかしさからオナラをじっと我慢している人が、とうとう危険な状態に陥ったのを目撃したからだそうです。
このクラウディウスの告示を証拠に、古代ローマ人は饗宴の最中にオナラをした、としている文献もあります。
しかし個人的には疑問を持っています。このエピソードはオナラが恥ずかしいものという感覚が前提だからです。

皆さんはどう思いますか?

さて、ローマの饗宴といえば嘔吐してまた食べるといった印象をお持ちの方も多いでしょう。歴史家スエトニウスのローマ皇帝伝の記述から抜粋すると、

クラウディウスは満腹し酩酊しない限り、なかなか食堂から退出しなかった。この後すぐに寝台に仰向けになり、口を開け喉の奥に羽毛をつっこみ、胃の負担を軽くしてもらっていた”

“ウィテリウスは朝食と昼食と夕食と夜ふけの酒盛りを摂り、いつも嘔吐によってどの食事も難なくこなしていた”

などの記述がみられます。
ただし、嘔吐に対する考え方は人それぞれであり、饗宴に出席する誰もがそうした訳ではありません。
哲学者セネカ

“彼らは、食べるために嘔吐し、嘔吐するために食べます。彼らは、全世界から探し集められたごちそうを、消化すらしてくださらないわけです。”

と痛烈に避難しています。

古代ローマの饗宴に招待されたら2…席順

前回に引き続き古代ローマの饗宴に招待されたら…というテーマで饗宴のマナーについての記事です。
現代日本では会食の時に上座、下座と座るべき場所が立場によって決まっている場合がありますよね。
実は古代ローマの饗宴においても、厳格なルールで席順が決められていました。

 

席順

古代ローマの食事室であるトリクリニウムには3つの大きな寝台がコの字型に並んでいます。一つの寝台には三人ずつ、合計9人が横になる事ができます。
その中でも身分や立場によって横になる場所は決まっていました。

まず、一番上座になるのが奥の寝台です。

  1. 執政官の座
    奥の寝台の中でも向かって左側の席が一番上座とされました。
    一番身分の高い招待客や、本日の主役となる招待客の席です。
    執政官とは共和制ローマの最高官職です。ローマが帝政に移行してからも(※)執政官は名誉職として任命されつづけました。(※実質帝政であっても名目上共和制であるというのが帝政初期の古代ローマアイデンティティなのですが、ここでは詳しく触れません)
  2. 王の座
    その隣は王の座と呼ばれ、二番目に良い席とされました。ここには執政官の座の人物の妻や息子、友人などの席とされることが多かったようです。
    古代ローマの人々にとって王とは皇帝や元老院の許可を得て属州の統治を任された存在(ヘロデ王など)もしくは、異国の王の事です。当然ながら、執政官の方が上座とされ、王の座はその次に良い席という扱いになりました。
  3. 招待主の席
    向かって左側の寝台は招待主とその家族の為の寝台です。
    その中で一番奥は招待主の席です。主賓に一番近く、全体を見わたしやすい場所というわけです。
  4. 招待主の妻や息子の席
  5. 自由民の座
    左側一番手前の席は招待主の家の解放奴隷が寝そべる席とされました。

右側はその他の招待客の席です。

もう少し大きな規模の饗宴の場合はこの寝台三台が一組のトリクリニウムが二組、三組と複数組用いられました。

他にも、食事の為の寝台には半円形をしたスティバディウムというものもありました。
人数が9人と決まっているトリクリニウムと比べて、何人で使用しても良いのが特徴だったようです。

3つの寝台が並べられたトリクリニウム

少しわかりにくいが、中央に半円形のスティバディウムが描かれている
影・パラシートゥス

饗宴には正式な席の他に寝台の端に腰掛ける人々もいました。

饗宴に招待された客は誰か他の人を連れてくる事が許されている場合がありました。しかし、当然ながらそうして連れてきた人の席はありません。
そのような場合、彼らは寝台の端や部屋の隅の椅子に腰掛けて食事をしました。
そうした人々は「影」と呼ばれました。その言葉があらわすとおり、彼らは饗宴のなかで重要ではない存在とされました。

しかし、お世辞が上手い、話が面白い、詩を作れるなどの一芸に秀でた庶民は正式に招待されることはなくても、饗宴の盛り上げ役として「影」のポジションで饗宴に同席して、毎日無料でご馳走を食べることが出来た人もいたのだとか。
こうした饗宴の盛り上げ役はパラシートゥスと呼ばれました。

(パラシートゥスは「食客」と訳されることもありますが、中国史食客とは全く意味が違います。)

ちなみに「影」やパラシートゥスの人数が多すぎて寝台の端に腰かけられない場合は部屋の隅に置かれる椅子に座って食事をしたり、それでも人数が多い場合には壁沿いに立って饗宴に参加したそうです。

古代ローマの饗宴に招待されたら1…服装、ドレスコード

あなたは古代ローマの饗宴に招待されたらどうしますか?

古代ローマ人にとって饗宴とは人脈を拡げたり、維持する為の大切な社交の場でした。

有力者と良好な人間関係を築ければ、良い仕事を回してもらえたり、仕事の話をスムーズに進める事も出来たでしょう。

また、金銭的な援助を受けたり、有力者の権力をバックグラウンドにつけることも出来るかもしれません。

しかし、饗宴の場ではどのように振る舞えばよいのでしょうか?

数回に渡って解説していきたいと思います。

男性

古代ローマの饗宴では長衣(トガ)といわれる衣服で正装して出席しなくてはいけませんでした。長衣(トガ)とは、白くて大きな布を身体に巻きつけ、たくさんのヒダをつけた衣服です。
時代により用いられる布の大きさや形は異なりますが、大きなものだと直径5mの半円形の布を身体に巻き付けたといわれています。

もちろん、一人で着ることはできませんから、着付けをするのは奴隷たちの役割でした。

高価な物だった為、トガを持っていない庶民が饗宴の招待を受けた場合、招待主から借りることもできたそうです。

トガ

また、すべてのローマ人が毎日饗宴に出席していたわけではありません。
友人同士で気さくな夕食会を楽しむ日もあれば、家で質素な夕食をとることもありました。

友人同士など気さくな夕食会の場合、正式なトガではなく、略式のトガを着て出席する事が多かったようです。ローマ人はこれらの衣服を晩餐衣(ウェスティス・ケナトリア)や食堂衣(ウェスティス・トリクリナリア)、饗宴衣(ウェスティス・コンウィウァリス)などと呼んでいたそうです。これらは堅苦しい正装のトガに比べて、少しカジュアルで洒落たイメージでした。

また、普段着や下着にあたるトゥニカという衣服もありました。家で夕食をとる時はもちろん服装に気を遣う必要はありませんから、トゥニカを着て食事をしていたと思われます。

女性

また饗宴の席に招待主や招待客の妻などの女性が同席する事もありました。

古い時代には女性は饗宴の席に姿を見せるべきではないとされましたが、時代が進むにつれて女性も同じく席に着き、食事をしたりお酒を飲んだりするようになりました。

しかし、未婚の女性が一人で出席するような事は基本的にありません。

ごく稀にお色気の要素を含んだ接待の場などで役者や踊り子の女性を伴った饗宴もありました。しかし当時の役者や踊り子はあまり上品でない職業だとされておりました。

古代ローマの男性がトガを着ていたことに対し、女性はそれに相当するストラ(又はパルラ)という衣服がありました。布を身体に巻き付けて複雑なヒダを付けたものです。これは上流階級の女性のための服装でした。

ストラ(パルラ)を身に着けたリウィア・ドルッシラ像

他にはキトンと呼ばれる一枚布をワンピースのような形に留めて着るギリシア風の服装などがあります。

古代ローマの女性は髪型へのこだわりも強く、セットには相当な時間をかけました。
髪にコテを当てて強くパーマをかけ、ボリュームを出した髪型が流行っていたことが、彫刻などから伺えます。

また、貞淑さを表すためのベールをかぶることも上品で良いこととされたようです。

髪型を決めてベールを被った女性の像