プリニウスは古代ローマの博物学者です。
ヤマザキ・マリさんとり・みきさんの漫画の主人公としても取り上げられているのでご存じの方も多いかもしれません。
彼の残した全37巻からなる『博物誌』は古代ローマの歴史や科学、人々の考え方を知る上でとても貴重な資料です。このブログでも古代ローマの食材に関して調べる際の貴重な参考文献として何度も引用しています。
しかし、プリニウス本人に関しては意外と記録が少ないのです。
今回は限られた資料の中からプリニウスの生涯と個性的な生活ぶりを紹介し、愛すべき変人ともいえる、その人物像に迫ってみたいと思います。
プリニウスは古代ローマの博物学者です。
生涯独身だったプリニウスは妹の息子を養子にして後継ぎとしております。この甥の小プリニウスと区別するために大プリニウスと呼ばれることもありますが、この動画では単にプリニウスと呼ぶことにします。
プリニウスの肖像画はどれも後世に描かれたものなので、本当の姿はわかりません。
ネット検索で出てくるこの肖像画は現在アメリカ議会図書館に収蔵されているものです。
このような肖像画もあります。甥の小プリニウスの記録によると“彼は体が大きい人だったので寝息が重く響いていた”とありますから、こちらの肖像画の方が似ているかもしれません。
プリニウスの出身地とされる北イタリアのコモ市の教会にはこのような大プリニウスの像があります。ずいぶん美形ですね。ここには甥の小プリニウスの像もあります。
その他、中世の写本では数々のプリニウスの肖像画が描かれてきました。
年代に沿ってプリニウスの生涯を追っていきましょう。
プリニウスは紀元23年もしくは24年、北イタリアのコムム(現・イタリア・コモ市)で生まれました。家は騎士身分に属しており、裕福であったとされています。家族は両親の他に妹(もしくは姉)が一人おりました。
プリニウスの幼少期に関しては記録が残っておらず、はっきりしたことはわかっていません。しかし、若いころローマに出て文法や修辞学から哲学、文学、植物学などを幅広く勉強したのではないかといわれています。
その後一時期弁護士として働いたのち軍務についたようです。
軍務についていた時期も資料が残っていないためはっきりとわかりませんが、紀元47年から57年頃まで騎兵士官としてゲルマニア戦線にいたことは諸説が一致しています。
この頃に著作
『馬上からの投げ槍について(1巻)』
『ポンポニウス・セクンドゥスの生涯(2巻)』
『ゲルマニア戦記(20巻)』などを著したといわれています。
紀元57年頃、プリニウスは軍務を終えます。この頃は皇帝ネロの政治が狂暴化していく時代でした。
プリニウスは公職を回避して引退生活を送りつつ著作
『学生(3巻)』
『疑わしい言葉(8巻)』などを書いていたのではないかといわれています。
やがてネロの治世が終わり激動の四皇帝の年ののち、ウェスパシアヌスが皇帝に即位するとプリニウスは公職に復帰し重用されるようになりました。
紀元71年~75年頃までいくつかの地方で皇帝代官という要職についていたそうです。
ヒスパニア・タラコネンシス(北スペイン)とシリアにいたことはほぼ確実視されています。他にアフリカや南フランス(ガリア・ナルボネンシス)やベルギー(ガリア・ベルギカ)などにいたという説もあります。
この頃に政務の側ら
『アウフィディウス・バッススの歴史書の続き(全31巻)』を執筆し、
『博物誌』の執筆にとりかかったといわれています。
その後、プリニウスはナポリ湾ミセヌムでローマ艦隊の艦隊長に就任しました。
『博物誌(37巻)』は77年に完成し、皇帝ティトゥスに贈られました。
プリニウスの著作は全部で102巻に及びますが、そのほとんどが長い歴史の中で失われてしましました。しかし『博物誌』37巻は何度も写本が作られ、中世ヨーロッパでは権威ある科学書として大きな影響を残したといわれています。
ウェスウィウス山の噴火とプリニウスの最期
紀元79年、プリニウスはローマ軍の艦隊の指揮官としてミセヌムに駐屯していました。
プリニウスの妹と甥の小プリニウスも一緒に住んでいたようです。
8月24日の午後12時~1時頃の事です。
読書をしていたプリニウスに妹が大きさも形も異様な雲があると知らせました。その雲はまるでイタリアカサマツという松の木のような形をしていました。煙はまるで幹のように高く立ち上り、その上が枝葉のように分かれていたそうです。高いところから確認すると、噴火したのがウェスウィウス山(現ヴェスヴィオ山)ということが分かりました。
プリニウスは最初好奇心から視察のために早い船を用意するように命じました。しかしすぐに考えを変え、友人やその他多くの人を助けるためにローマ軍の四段櫂船を出港させてウェスウィウス山に向かうことにしました。
もちろん、船の中にも記録係を同行させ、観察したそのままを書きとらせ、みずからもこの自然現象を描写するメモをとりました。
しかし、船が現場に近づくにつれ大量の熱い火山灰が降り、軽石や炎で焼け焦げた石なども降ってくるようになりました。さらに海岸は火山からの噴出物で塞がれており、目的地に上陸できませんでした。
部下の一人が引き返すことを進言しましたがプリニウスは拒否し、目的地を変えてポンポニアヌスという友人の元へ向かうことにしました。そこはちょうど湾の反対側だったので風に乗って船を岸につけることができました。
プリニウスは上陸すると恐怖におののいていた友人を抱擁し、励ましました。
ポンポニアヌスの恐怖を鎮めるために自分は陽気に振る舞うことにしたようです。平静さをみせるために、なんとお風呂に入ることにしました。
入浴後は上機嫌で夕食をとりました。あるいは上機嫌であることを装っていたのかもしれません。
ウェスウィウス山からは何度も幅の広い炎と背の高い火柱があがりましたが、プリニウスは「あれは農夫が残していった焚火だ」とか「空き家が燃えているだけだ」などと繰り返し言いました。
それから彼は休息をとりました。しっかり深く眠ったらしく、大きな寝息が部屋の外まで響いていたそうです。
そうこうしているうちにポンポニアヌスの家は軽石で埋まり始め、さらに振動で今にも倒壊しそうになりましたので、一行は海岸へと非難しました。
海は荒れており、船を出すのは危険な状態でした。
夜明けの時間帯だというのに空は暗闇です。
息苦しさからプリニウスは布の上に横たわり何度も水を求めたそうです。
やがて炎と硫黄の匂いが迫ってくると他の人々は逃げ出しました。プリニウスも避難しようと二人の奴隷に寄りかかって立ち上がりましたが、突然崩れ落ちるように倒れ、それが彼の最期でした。
もとから気管が弱かったプリニウスは濃い火山ガスに呼吸を妨げられ、窒息したのではないかといわれています。
プリニウスがミセヌムから出港して三日目、彼の身体は完全で無傷なままで発見されましたが、その姿は眠っているようだったそうです。
以上は甥の小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙の中に記されていた内容から抜粋したものです。まるで現場を見てきたような臨場感あふれる文章ですが、それは伯父プリニウスの最期をしっかりと詳細に伝えた者がいたのでしょう。小プリニウスは母親と一緒にミセヌムに残っていました。噴火に伴う度重なる地震から避難し、こちらもかなり危険な目に合っていたようです。
小プリニウスの書簡は短くて読みやすく、もちろん日本語に訳されています。この動画より原文を読んで頂いた方が一層臨場感が伝わると思いますので、機会があれば読んでみて下さい。