にゃこめしの食材博物記

YouTubeチャンネル「古代ローマ食堂へようこそ」の中の人のブログ。古代ローマの食文化についての記事を中心に、様々な歴史や食文化について調べて書いているブログです。

古代ローマ料理 ヒョウタンのクミンソース 再現レシピ

前回にの記事に引き続き、今回も古代ローマヒョウタン料理を再現してみたいと思います。
古代ローマではヒョウタンの仲間はククルビタ(cucurbita)と呼ばれ、若い実は食用に、成熟した実の外皮はお酒の容器などに利用されてきました。
残念ながら食用ヒョウタンが手に入りませんので3種類のウリ科の野菜を使います。

古代ローマから現代に伝わるレシピ集、『アピキウスの料理書』にはクミンソースで仕上げるヒョウタン料理のレシピが記載されています。
古代のレシピゆえ、材料の分量も詳しい調理手順も書かれていません。料理人の解釈により出来上がる料理が変わってきます。
このブログでは私が作るとどうなったのか、という視点でお読みいただければと思います。

『アピーキウス古代ローマの料理書』三省堂 より

クミンソースのレシピ『アピーキウス古代ローマの料理書』三省堂 より

材料

  • ズッキーニ、冬瓜、白瓜など 適量
  • コショウ 少々
  • セロリの葉(ラヴィッジの代用) 10g
  • パセリ 10g
  • 乾燥ミント 少々(1g程度)
  • クミン 5g(大さじ1)
  • 蜂蜜 大さじ2
  • ワインビネガー 50㏄
  • お好みの魚醤(リクァーメンの代用)50㏄

参考文献は材料の記録だけで調理方法が示されていませんので、あとの工程はいつものパターンだと仮定してソースを作ります。

  1. 蜂蜜以外の材料をミキサーに入れすり潰したら鍋に移します。
  2. 蜂蜜を加え、よく混ぜながらひと煮立ちさせたらソースの完成です。

  3. 冬瓜は適当な大きさに切り分けて皮を剥き、8mmくらいの厚さにスライスします。白瓜も皮を剥き8mmくらいの厚さにスライスし、真ん中の種とワタをスプーンでくりぬいて取り除きます。ズッキーニは皮を剥く必要はないので、洗って同じ厚さに切っておきます。

  4. 鍋にお湯を沸かし、ウリ科の野菜達をサッと湯がきます。
    この工程は必要かどうかわかりません。文献の料理の名前は「水煮して油で焼いたヒョウタン」なのに茹でるとは書いてありません。もしかしたら昔のヒョウタンはアク抜きが必要だったのかもしれません。
  5. 鍋に3を並べ、オリーブオイルを回しかけたら先ほどのクミンソースを注ぎ、火にかけます。火が通ったら完成です。お皿に盛り付けましょう。

さあ、試食してみましょう!

ハーブの青くフレッシュな香りとクミンの食欲をそそるスパイシーな香りが口いっぱいに広がります。
ビネガーの酸味と魚醤の旨味がハーブとスパイスのはじける様な香りをうまくまとめ上げています。
オリーブオイルを吸ってとろりとした甘みを増した野菜に強い味のソースがよく合い、とても満足感のある一品でした。

このクミンソースは肉や魚にもよく合います。

せっかくなので前回の記事で作った料理と一緒に並べてみました。

どちらもそれぞれ、美味しかったです。

夏もそろそろ終わり。
来年こそ食用ヒョウタンを手に入れて、より古代ローマ時代の料理に近いものを作りたいものです。

参考文献

『アピーキウス・古代ローマの料理書』
ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂

古代ローマ料理 ヒョウタンのガルムソース 再現レシピ

古代ローマではククルビタ(cucurbita)と呼ばれていた作物がありました。

それは若い実は食用にし、成熟した実は中の種を取り除き硬い外皮をお酒の容器や小物入れなどに使います。
何の作物か分かりましたか?

そう、ヒョウタンの事です。

古代ローマ博物学プリニウスは『博物誌』でヒョウタンについてこのように記述しています。

“(前略)ヒョウタンは近頃浴室で水差しの代わりに用いられるようになった。
それは酒を貯蔵する瓶として長いこと使用されてきた。

ヒョウタンの皮は青いうちは薄いが、それでも食用に供するときには掻きとられる

(中略)この植物の頭に最も近い種子は長いヒョウタンを生ずる。そしてその尻に近い種子も同様だ。中央の種子は丸いヒョウタンがなる。そして縁にある種子は太くて短いヒョウタンがなる(以下略)”

『博物誌』の内容の正確さはともかくとして、古代ローマでは長いもの、丸いもの、といろいろな形のヒョウタンが利用されてきたのでしょう。

イタリアでは食用ヒョウタンが今でも栽培されており、ズッキーニと同じような調理法で食べるそうです。
(カボチャもヒョウタンもズッカと呼ばれ、ヒョウタンの方にはzocca da vinoやzucca bottigliaなどの種類がある)

夏の間に食用ヒョウタンを手に入れたかったのですが、残念ながら手に入りませんでしたので代わりにウリ科の野菜を3種類用意して、古来ローマのヒョウタン料理を再現してみたいと思います。

白瓜、冬瓜、そしてアメリカ大陸原産だけどズッキーニも用意しました。

左からズッキーニ、冬瓜、白瓜

古代ローマのレシピ集である『アピキウスの料理書』にはヒョウタン料理がいくつか伝わっています。今回はヒョウタンのソテーにシンプルなソースをかけた料理を作ってみたいと思います。

『アピーキウス古代ローマの料理書』三省堂より

なお、アピキウスの料理書には材料の分量も詳しい調理手順も書かれていません。料理人によって再現される料理が変わってきます。このブログは私が作るとどうなったのか、という視点でお読みいただければと思います。

材料(二人前)

  • ズッキーニ、冬瓜、白瓜など 適量
  • オリーブオイル 大さじ3
  • 赤ワイン(できれば甘口のもの)大さじ1
  • 魚醤 大さじ1(塩分量は商品によって違うので味見しつつ調節して下さい)

こちらのシンプルなレシピの方から作っていきましょう。

  1. まずは下ごしらえです。
    冬瓜は適当な大きさに切り分けて皮を剥き、8㎜くらいの厚さにスライスします。
    白瓜も皮を剥き8㎜くらいの厚さにスライスし、真ん中の種とワタをスプーンくりぬいて取り除きます。
    ズッキーニは皮を剥く必要はないので洗って同じ厚さに切っておきます。

  2. 葡萄酒入りガルムのかわりに甘口の赤ワインとお好みの魚醤を混ぜて馴染ませておきます。
  3. 次にフライパンにオリーブオイルを注ぎ、1.を並べて焼いていきます。
    中火で7~8分、途中でひっくり返し、両面焼き色がついたら焼き上がりです。
  4. お皿に並べて2.のソースをかけて、胡椒をふったら完成です。

とてもシンプルな料理ですね。

さあ、試食してみましょう!

ソースは魚醤の旨味とワインの甘み酸味が程よく、旨味がすごく強いポン酢のようです。淡白な味のウリ科野菜の味ととてもよく合います。

油をたっぷり吸った冬瓜はナスのような旨味があり、予想以上の美味しさでした。
白瓜は火を通してもシャクシャクして面白い食感、
そしてズッキーニはさすが、安定のクオリティーで美味しいです。

なんだか和食を思わせるような素材の美味しさを活かした一皿でした。

今回は冬瓜、白瓜、ズッキーニと3種類の野菜で代用して作りましたが、
もしもイタリアでヒョウタンの料理を食べたことのある人がいらっしゃいましたらコメントでどんな味だったか教えて下さい。

次回の記事ではクミンソース仕立てのスパイシーなしヒョウタン料理をつくります。
もちろん、文献を基に再現していますので、ぜひご覧ください!

参考文献/

【参考文献】
『アピーキウス・古代ローマの料理書』
ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂

プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

博物学者プリニウス(2)面白すぎる生活

前回の記事では古代ローマ博物学プリニウスの生涯を紹介しました。

プリニウス(画像:wikipediaより)

今回はプリニウスの人物像と、その個性的な生活ぶりがわかるエピソードを紹介していきます。

今日では博物学者として知られるプリニウスですが、彼は専業の学者ではなく、忙しい政務や軍務の側ら大量の書物を読み、執筆しました。
一体どうやって時間を捻出していたのか気になりますね。

甥の小プリニウスの書簡にはプリニウスの驚くべき生活の様子が記録されています。

プリニウスは睡眠時間が短くて済む人でした。

夜の長い冬の間は、研究の時間を長くとるために真夜中に起きて勉強を始めました。
遅くとも2時半頃、早い日には夜の23時過ぎに起きたそうです。
そこから夜通し研究の時間にあて、そして夜明け前に皇帝ウェスパシアヌスを訪問し、昼間は職務につきました。
睡眠不足が気になるところですが、プリニウスは仕事中にたびたび居眠りをしては、またすぐさめて活動していたそうです。

昼間の時間が長い夏の間は少しでも仕事の暇があれば研究にあてました。
プリニウスは常に自分の側に本と書き板をもった速記者をつれており、本を読ませつつ覚え書きや抜粋をつくったそうです。
彼は「何もとりえのないほど悪い本などはない」と言い様々な本から情報を抜き出し、整理し、編集しました。

昼頃になると冷たい風呂に入り、少し何かを食べ、短い睡眠をとりました。
そして昼寝から目覚めるとまるで新しい一日が始まったかのように仕事を始め、夕食まで続けたそうです。

もちろん、プリニウスは食事の時間も無駄にしません。
日中の食事は軽く、簡単に済ませました。
夕食のときは朗読者に本を読ませ、速記者に覚え書きを作らせつつ食事をとります。

ある時、プリニウスの友人の一人が朗読者に間違って発音したところまで戻ってもう一度読むようにと言ったことがありました。その時のことを小プリニウスはこう記録しています。

“「わからなかったのか」と伯父はいいました。
その友達はわかっていたことを認めました。
伯父は「それならなぜ、もとへ戻らせるのだ。君が邪魔して、少なくとも十行は損をした」と言いました。これほどまでに時間の節約に心をくだいたのです。”

そんなプリニウスですから、夕食の時も長居することなく食事が終わるとさっさと席を立ったようです。

“夏にはまだ明るいうちに食事から立ち上がり、冬には夜になり始めるとすぐ立ち上がりました。”

もちろん夕食後は自身の研究の仕事にあてる時間です。

そんなプリニウスが仕事を中断してリラックスする時間は入浴中のときだけでした。
ただし、

“この入浴というのは実際に湯につかっている時の事を意味します。
というのは体をこすられたり、乾かされているときは、本を読ませたり、書き取りをさせたりしたからです”

だそうです。風呂場でのドタバタが目に浮かぶようですね。

さらにプリニウスは移動の時間も無駄にしませんでした。
移動の際は椅子に座ったまま運ばれるのが常だったそうです。
冬にはどんなひどい天候でも勉強する時間を失わないようにするために両手を長い袖で覆いました。

“私(小プリニウス)はぶらぶら歩いていてどんなに叱られたかを思い出します。彼によればそのように時間を浪費してはいけなかったのです、というのは、彼は、勉強に費やされた時間でなければすべて時間の浪費だと思ったのです。彼が、これらすべての本を完成できたのは、この勤勉さゆえでした。”

プリニウスは驚くべき体力と精神力をもって執筆していたことがよく分かります。
この上なく勤勉で情熱的な研究者だと尊敬の念を覚えるとともに、愛すべき変人と感じてしまうのは、私だけではないはずですよね…?

さて、このブログのテーマである、食べ物の話に移りましょう。
プリニウスが何を食べたかという記録は残念ながら残されておりません。

しかし、甥の小プリニウスの為の饗宴のお品書きは現在まで残っているのです。
それは次のようなものです。

前菜…サラダ、カタツムリ三個、固ゆで卵二個

主菜…粥、焼きズッキーニ※のソース添え、野生の花の球根の酢漬け

デザート…ムルスム(蜜酒)アイス、新鮮な果実

古き良きローマの伝統に基づいた、何とも素朴で質素な献立です。

今回の記事は、ほとんど小プリニウスの記録から抜粋したものです。感謝の気持ちを表すために次回はこの中から一品作りたいと思います。

(※翻訳の都合上ズッキーニとなっているが、ズッキーニはアメリカ大陸原産の植物の為、古代ローマには無い。これはククルビタという食用ヒョウタンの一種)

博物学者プリニウス(1)その生涯について

プリニウス古代ローマ博物学者です。
ヤマザキ・マリさんとり・みきさんの漫画の主人公としても取り上げられているのでご存じの方も多いかもしれません。

彼の残した全37巻からなる『博物誌』は古代ローマの歴史や科学、人々の考え方を知る上でとても貴重な資料です。このブログでも古代ローマの食材に関して調べる際の貴重な参考文献として何度も引用しています。

しかし、プリニウス本人に関しては意外と記録が少ないのです。
今回は限られた資料の中からプリニウスの生涯と個性的な生活ぶりを紹介し、愛すべき変人ともいえる、その人物像に迫ってみたいと思います。

プリニウスの肖像

プリニウス古代ローマ博物学者です。
生涯独身だったプリニウスは妹の息子を養子にして後継ぎとしております。この甥の小プリニウスと区別するために大プリニウスと呼ばれることもありますが、この動画では単にプリニウスと呼ぶことにします。

プリニウス肖像画はどれも後世に描かれたものなので、本当の姿はわかりません。
ネット検索で出てくるこの肖像画は現在アメリカ議会図書館に収蔵されているものです。

プリニウス(画像:wikipediaより)

このような肖像画もあります。甥の小プリニウスの記録によると“彼は体が大きい人だったので寝息が重く響いていた”とありますから、こちらの肖像画の方が似ているかもしれません。

プリニウス(『プリニウスの博物誌』雄山閣より)

プリニウスの出身地とされる北イタリアのコモ市の教会にはこのような大プリニウスの像があります。ずいぶん美形ですね。ここには甥の小プリニウスの像もあります。

(左)大プリニウス (右)小プリニウス(画像:wikimedia commonsより)

その他、中世の写本では数々のプリニウス肖像画が描かれてきました。

様々なプリニウス肖像画(いずれもwikimedia commonsより)

プリニウスの生涯

年代に沿ってプリニウスの生涯を追っていきましょう。

プリニウスは紀元23年もしくは24年、北イタリアのコムム(現・イタリア・コモ市)で生まれました。家は騎士身分に属しており、裕福であったとされています。家族は両親の他に妹(もしくは姉)が一人おりました。

プリニウスの幼少期に関しては記録が残っておらず、はっきりしたことはわかっていません。しかし、若いころローマに出て文法や修辞学から哲学、文学、植物学などを幅広く勉強したのではないかといわれています。

その後一時期弁護士として働いたのち軍務についたようです。
軍務についていた時期も資料が残っていないためはっきりとわかりませんが、紀元47年から57年頃まで騎兵士官としてゲルマニア戦線にいたことは諸説が一致しています。

この頃に著作
『馬上からの投げ槍について(1巻)』
『ポンポニウス・セクンドゥスの生涯(2巻)』
ゲルマニア戦記(20巻)』などを著したといわれています。

紀元57年頃、プリニウスは軍務を終えます。この頃は皇帝ネロの政治が狂暴化していく時代でした。
プリニウスは公職を回避して引退生活を送りつつ著作
『学生(3巻)』
『疑わしい言葉(8巻)』などを書いていたのではないかといわれています。

やがてネロの治世が終わり激動の四皇帝の年ののち、ウェスパシアヌスが皇帝に即位するとプリニウスは公職に復帰し重用されるようになりました。
紀元71年~75年頃までいくつかの地方で皇帝代官という要職についていたそうです。
ヒスパニア・タラコネンシス(北スペイン)とシリアにいたことはほぼ確実視されています。他にアフリカや南フランス(ガリア・ナルボネンシス)やベルギー(ガリア・ベルギカ)などにいたという説もあります。

この頃に政務の側ら
『アウフィディウス・バッススの歴史書の続き(全31巻)』を執筆し、
『博物誌』の執筆にとりかかったといわれています。

その後、プリニウスナポリ湾ミセヌムでローマ艦隊の艦隊長に就任しました。
『博物誌(37巻)』は77年に完成し、皇帝ティトゥスに贈られました。

プリニウスの著作は全部で102巻に及びますが、そのほとんどが長い歴史の中で失われてしましました。しかし『博物誌』37巻は何度も写本が作られ、中世ヨーロッパでは権威ある科学書として大きな影響を残したといわれています。

ウェスウィウス山の噴火とプリニウスの最期

紀元79年、プリニウスはローマ軍の艦隊の指揮官としてミセヌムに駐屯していました。
プリニウスの妹と甥の小プリニウスも一緒に住んでいたようです。

8月24日の午後12時~1時頃の事です。

読書をしていたプリニウスに妹が大きさも形も異様な雲があると知らせました。その雲はまるでイタリアカサマツという松の木のような形をしていました。煙はまるで幹のように高く立ち上り、その上が枝葉のように分かれていたそうです。高いところから確認すると、噴火したのがウェスウィウス山(現ヴェスヴィオ山)ということが分かりました。

1822年のヴェスヴィオ山の噴火を描いた図。79年の噴火も似たような状態だったと考えられている。(画像:wikipediaより)

プリニウスは最初好奇心から視察のために早い船を用意するように命じました。しかしすぐに考えを変え、友人やその他多くの人を助けるためにローマ軍の四段櫂船を出港させてウェスウィウス山に向かうことにしました。
もちろん、船の中にも記録係を同行させ、観察したそのままを書きとらせ、みずからもこの自然現象を描写するメモをとりました。

しかし、船が現場に近づくにつれ大量の熱い火山灰が降り、軽石や炎で焼け焦げた石なども降ってくるようになりました。さらに海岸は火山からの噴出物で塞がれており、目的地に上陸できませんでした。

部下の一人が引き返すことを進言しましたがプリニウスは拒否し、目的地を変えてポンポニアヌスという友人の元へ向かうことにしました。そこはちょうど湾の反対側だったので風に乗って船を岸につけることができました。

プリニウスは上陸すると恐怖におののいていた友人を抱擁し、励ましました。
ポンポニアヌスの恐怖を鎮めるために自分は陽気に振る舞うことにしたようです。平静さをみせるために、なんとお風呂に入ることにしました。
入浴後は上機嫌で夕食をとりました。あるいは上機嫌であることを装っていたのかもしれません。
ウェスウィウス山からは何度も幅の広い炎と背の高い火柱があがりましたが、プリニウスは「あれは農夫が残していった焚火だ」とか「空き家が燃えているだけだ」などと繰り返し言いました。
それから彼は休息をとりました。しっかり深く眠ったらしく、大きな寝息が部屋の外まで響いていたそうです。

そうこうしているうちにポンポニアヌスの家は軽石で埋まり始め、さらに振動で今にも倒壊しそうになりましたので、一行は海岸へと非難しました。
海は荒れており、船を出すのは危険な状態でした。
夜明けの時間帯だというのに空は暗闇です。
息苦しさからプリニウスは布の上に横たわり何度も水を求めたそうです。
やがて炎と硫黄の匂いが迫ってくると他の人々は逃げ出しました。プリニウスも避難しようと二人の奴隷に寄りかかって立ち上がりましたが、突然崩れ落ちるように倒れ、それが彼の最期でした。

もとから気管が弱かったプリニウスは濃い火山ガスに呼吸を妨げられ、窒息したのではないかといわれています。

プリニウスがミセヌムから出港して三日目、彼の身体は完全で無傷なままで発見されましたが、その姿は眠っているようだったそうです。

以上は甥の小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙の中に記されていた内容から抜粋したものです。まるで現場を見てきたような臨場感あふれる文章ですが、それは伯父プリニウスの最期をしっかりと詳細に伝えた者がいたのでしょう。小プリニウスは母親と一緒にミセヌムに残っていました。噴火に伴う度重なる地震から避難し、こちらもかなり危険な目に合っていたようです。

プリニウスの書簡は短くて読みやすく、もちろん日本語に訳されています。この動画より原文を読んで頂いた方が一層臨場感が伝わると思いますので、機会があれば読んでみて下さい。

 

古代ローマ料理 豚の子宮のソーセージ 再現レシピ

古代ローマの美食家達は雌豚の希少部位を特に好みました。
乳房、胃袋、そして子宮などです。
今回は豚の子宮が手に入りましたので古代ローマの美食家が残した資料をもとに料理を再現してみたいと思います。

これが豚の子宮です。人間のものと随分形が違いますね。一度に10頭もの子を妊娠出来るよう、子宮は二股に分かれ、子宮角と呼ばれる部位がとても大きくなっています。
これを使って料理してきましょう。

参考文献は古代ローマのレシピ集である『アピキウスの料理書』の日本語訳です。

なお、ご覧の通りアピキウスの料理書には材料の分量も、詳しい調理手順も書かれていません。料理人によって少しづつ再現される料理が変わってきます。
この記事では私が作るとどうなるのか、という視点でご覧頂ければと思います。
尚、手に入りにくい材料は身近なもので代用しています。

それでは、作ってみましょう。

材料

  • 豚の子宮 1頭分
  • 豚ひき肉 500g
  • ネギ(根元の白い部分) 30g
  • ヘンルーダ 少々(なくても良い)
  • クミン 小さじ1/2
  • コショウ 少々
  • 魚醤 大さじ1(お好みのもの、今回の試作ではヌクマムを使いました。)
  • 松の実 30g
  • オリーブオイル 大さじ2
  • ディル(乾燥) 小さじ1/2 
  • ネギ(青い部分) 50g 茹でやすいように縛っておく
  • 魚醤 小さじ1

作り方

  1. 豚の子宮を10cmくらいの長さにぶつ切りにし、粗塩で揉んでから水ですすぎヌメりを落とす。ぬめりが取れるまで5~6回繰り返す。
    臭みが気になる場合は牛乳(分量外)に漬け込み臭みを抜いておく。

     

  2. ネギとヘンルーダを細かく刻んですり鉢へ入れる。
    さらにクミン、コショウ、魚醤を加え一緒にすり鉢ですり混ぜる。

     

  3. 豚挽肉に2を加え、全体が滑らかになるまでよく混ぜる。

     

  4. 3に粗く刻んだ松の実と胡椒をくわえ、ざっくりと混ぜる。

  5. 4を絞り袋に入れ、1で下ごしらえしておいた豚の子宮に詰める。
    茹でると縮んで端から具が出てくるので、具は真ん中に寄せて前後は少し空間を開けておく

  6. 鍋に湯を沸かし、縛っておいたネギの束、オリーブオイル、魚醤小さじ1、ディルを加える。
    沸騰したら5を投入し、しっかりと火が通るまで茹でる。

  7. 適当な大きさに切り分け、盛り付ける。

さぁ、試食してみましょう!

子宮の部分はプリプリ、サクサクしています。
ちょっと鶏の砂肝にも似ていて、食べていて楽しくなる歯触りです。
レバーのようなクセもなく、見た目以上に食べやすい味といえます。

中に詰めた挽き肉はクミンやコショウのおかげで現代のソーセージに近い味に仕上がっています。

ミンチのしっかりと肉を感じる食べ応えの中にサクサクした松の実のアクセントが効いています。

これは皮の食べ応えがスゴいソーセージ、といった感じの一皿になりました。

古代ローマの人々は豚を余すところなく味わい尽くす術をよく知っていたのだと実感できました。

参考文献

『アピーキウス・古代ローマの料理書』
ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂

古代ローマと豚(3)…肉加工品ソーセージ、ハム、ベーコン

前回、前々回に引き続き豚と古代ローマの食文化の切っても切れない関係についてです。今回は豚肉の加工品に焦点を当てて調べた事をご紹介したいと思います。

肉の加工品がいつの時代からあるのかははっきりとしていません。人類が食料の保存を考えて塩漬けや燻製等の技術を編み出したのは太古の昔の事でした。

古代ローマの時代にはハムやベーコン、ソーセージなど様々な肉の加工品がありました。
饗宴のメニューでは“豚肉のハム”や“ベーコンとササゲ”などの美味しそうな記述が残っています。

共和制ローマの政治家、大カトーは著書『農業論』にハムの作り方を書いています。

“樽の底に塩を敷き、豚の腿肉の皮付きの方を下にしておく。この上に肉が隠れるまで塩を振り、次々に樽が一杯になるまで腿肉と塩を交互に入れる。5日目に取り出し、樽底に新しい塩を敷き、今度は皮付きの方を上にして、腿肉と塩を交互に入れる。12日目に取り出し、水気を除き、2日間空気にさらす。3日目には、海綿で拭いて油を塗り、2日間燻製する。3日目に油と酢を塗り、肉保存室に入れる”

カトーは神々に捧げる儀式にベーコンを捧げたという記録も残しています。

マルス・シルウァーヌスの日の昼間、森の中で3ポンドのスペルト(小麦)、1ポンドのベーコン、4.5ポンドの肉の切り身、1.5リットルのワインを生贄として捧げる。その肉を深鍋に入れてワインを注ぐ(中略)聖なる儀式が終わったら、すぐにその場で一切のものが食べ尽くされる”

何だか美味しそうな儀式ですね。ちなみに女性は参加できないそうです。

肉の加工品の中でも古代ローマで特に種類が多かったのはソーセージです。古代ギリシアでもソーセージに関する記録が散見される事から、ギリシア文化の影響が強かったためといわれています。

ソーセージの語源は、一説にはラテン語で塩漬けを意味するサルススSalsusであったといわれています(諸説あり)。

しかし、古代ローマではソーセージひとまとめではなく、その種類ごとに呼び分けていたようです。それぞれ列挙してみると、

ラテン語で詰めるという意味のfarcireファルキレという言葉から生まれたfarciminaファルキミナという腸詰め。
・小腸を使用したボテルスbotellusという小さめのソーセージ
ルカニアLucania地方がルーツのソーセージ、ルカニカLucanica
・腸ではなく、腹膜又は網脂omentumで包んだソーセージomentataオメンタタ
ラテン語で切り刻むという動詞insecareインセカレから派生した挽肉・すり身料理全般を指すイシキアisicia

などです。
イシキアには豚肉以外にも鶏肉で作るものやヤリイカやエビ、貝で作るものもあります。こちらも美味しそうですね。
古代ローマの人々は肉や香辛料を何かに詰める料理が大好きだったようです。

以前こちらの記事↓で再現したヤマネ料理も、ヤマネの中に豚挽肉を詰めるという料理でしたね。

次回の記事ではそんな、古代ローマ人の歪んだ愛情と少しの狂気を詰め込んだ豚料理を作っていきたいと思います。

参考文献/

『アピーキウス・古代ローマの料理書』
ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂

古代ローマの食卓』
パトリック・ファース著 目羅公和訳 東洋書林

『豚肉の歴史』
キャサリン・M・ロジャー著 伊藤 綺訳 原書房

『ソーセージの歴史』
ゲイリー・アレン著 伊藤 綺訳 原書房

 

古代ローマと豚(2)…メス豚への歪んだ愛情

前回に引き続き今回も、豚と古代ローマというテーマにまつわるエピソードの数々を紹介していきたいと思います。

古代ローマで豚がいかに愛されたか、それは数々の記録から伺えます。
博物学プリニウスは豚についてこのように書いています。

“どんな動物でも豚くらい多くの材料を飲食店に提供しているものはない。すべての他の肉はそれぞれ1つの風味しかもたないが、ブタは50の風味を持っている”

古代ローマのレシピ集であるアピキウスのの『料理書』では丸焼きから薄切り肉にはじまり、胃袋、腎臓、イチジクで肥育したレバーなど内蔵を使ったレシピ、
さらには鼻やしっぽや足、未分娩の子宮や乳房など様々な希少部位のレシピが記述されています。

古代ローマの人々は特に雌豚の希少部位を珍重しました。
再びプリニウスの記述に戻るとそこにはもはやマニアックな性癖ではないかと思うほどの、食材へのこだわりが記述されています。

“雌ブタの胃はうまく分娩した後よりも流産した後のほうが味が良い。初めて出産しつつある雌ブタの胃は最上で、分娩で精力を失ってしまった雌ブタのそれは反対だ。分娩した後、その同日に殺さなければ胃は悪い色になり、脂肪もなくなる。”

“分娩の翌日殺されたブタの乳房は最上だ。もっともそれがまだ授乳していなければだが。流産した雌ブタの乳頭は最悪だ”

女性の方、ご気分を悪くされたらすみません。しかし、雌ブタに対する残酷な記述はまだあります。

“雌ブタはラクダと同じ方法で卵巣を抜かれる。すなわち、二日間絶食させた後、前脚に寄って吊り下げ子宮をえぐり出す。そうするとそれらはずっと早く太る”

“ガチョウの肝と同じように雌ブタの肝を処理する方法がある。それはマルクス・アピキウスの発明で雌ブタは干しイチジクをたらふく食わされ腹一杯になったところで、蜂蜜酒を飲まされて直ちに殺されるのだ”

美食家達はブタはこのように肥育したり、肝臓をフォアグラ状態にして食べたようです。
ローマ人、豚に対する愛が深すぎるあまり、若干歪んでいるような気がします。

もちろん、このような特殊なブタの飼育は一部のものであったと思われます。
もう少し健康的に豚を太らせる方法もありました。

“ブナの実を飼料にするとブタが元気になり、その肉は調理しやすいし、軽くて消化もよい。カシワの実をやると、ブタは重くころころになる”

イベリコ・デ・ジョータと呼ばれる高級なイベリコ豚など、ドングリを食べさせて美味しい豚を育てる方法は現在でも使われていますね。

古代ローマの皇帝達もも豚肉に関するエピソードを残しています。
紀元40年、ユダヤ人の使節が自分達の権利を訴えるために3代目皇帝のカリグラの元へやって来た時の事です。
カリグラは別荘を贅沢にあつらえる事に夢中で、必死に訴えるユダヤ使節の方を見向きもしなかったといいます。
そして、使節の方へ向き直ったと思うと一言、こう言ったそうです。
「なぜお前たちは豚の肉を食べないのか?」

カリグラと同じく狂気のエピソードの多い少年皇帝、ヘリオガバルスは美食家アピキウスに影響を受け、豪華な饗宴を開いたといわれています。その食材はラクダの足やフラミンゴの脳などといわれていますが、数々の珍味と並んで豚料理も提供されています。文献によると

“彼は10日間立て続けに野生の雌豚の乳房に子宮が付着しているものを一日30頭ずつ供した”

だそうです。
アピキウスの料理書にもウィテリウス風の子豚やトラヤヌス風の子豚など皇帝の名が着いた子豚料理のレシピが収録されています。

古代ローマの豚料理といえば、小説『サトゥリコン』に書かれているものも有名です。
成り上がり者で金持ちのトリマルキオという人物が開く饗宴は、招待客を驚かせるための工夫を凝らした料理が次から次へと出てきます。
その饗宴で提供された豚の丸焼きは、腹を割くと中から内臓に見立てたソーセージがこぼれ出てくるのでした。
古代ローマ人、豚が好きすぎですが、やはりその愛情はちょっと歪んでいるような気がするのは私だけでしょうか?

参考文献

プリニウスの博物誌』プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

古代ローマの食卓』パトリック・ファース著 目羅公和訳 東洋書林

『豚肉の歴史』キャサリン・M・ロジャー著 伊藤綺訳 原書房

『ガイウスへの使節フィロン著 秦剛平訳 京都大学学術出版界

『アピーキウス・古代ローマの料理書』ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂