にゃこめしの食材博物記

YouTubeチャンネル「古代ローマ食堂へようこそ」の中の人のブログ。古代ローマの食文化についての記事を中心に、様々な歴史や食文化について調べて書いているブログです。

古代地中海世界の謎多き植物シルフィウムの正体

さて、前回の記事まで3回にわたってシルフィウムという植物、そしてその樹脂で作られた薬や調味料のラーセルについて説明してきました。
この植物の正体はいったいどのようなものだったのでしょうか。

まずはパルティア産やシリア産のシルフィウムはセリ科オオウイキョウ属のフェルラ・アサフェティダという植物であることが分かっています。
先程説明した通り、アサフェティダやヒングという名前で現在も調味料として使われています。また、漢方薬としても、阿魏という名前で使われており、消化を助け胃を健やかに保つといわれています。

フェルラ・アサフェティダの植物画(Wikipediaより)

一方でキュレナイカ産のシルフィウムは未だに謎が多い存在です。古代ローマの記録では皇帝ネロに贈られた一本を最後にキュレナイカ産のシルフィウムは姿が見られなくなった、とあります。
しかし、実は絶滅しておらず、現在も存在している植物のどれかではないかと考える研究者もいるのです。

今回の参考文献であるディオスコリデスの『薬物誌』には明治薬科大学名誉教授の岸本良彦氏による注釈が入っており、シルフィウムはフェルラ・ティンギタナという植物だと書かれています。

同じく参考文献のひとつ『食卓の賢人たち』の注釈にもシルフィウムはフェルラ・ティンギタナであると書かれています。
セリ科オオウイキョウ属の植物で、学名の由来になったモロッコの港町タンジールの他、地中海沿岸地域の低木地帯や岩場などに現在でも生育しています。

フェルラ・ティンギタナ(Wikipediaより)

 

余談ですが前々回の記事で少し触れた、古代ローマの軍医で薬学者、ディオスコリデスの記した『薬物誌』で堕胎薬や婦人科系の治療薬として記述されていたシルフィウムに似たサガペノンという植物、こちらはフェルラ・ペルシカという植物ではないかといわれています。
この植物は現在でもその成分が注目され、薬学などの分野で研究が続けられています。

フェルラ・ペルシカの植物画(Wikipediaより)

その他にもシルフィウムの候補となる植物はいくつかあり、タプシア・グミフェラという植物や、フェルラ・ナルテックスという植物もシルフィウムの正体ではないか、とする説があるようです。

タプシア・グミフェラ(Wikipediaより)

フェルラ・ナルテックスの植物画(Wikipediaより)

更に、トルコのイスタンブール大学教授で生薬学の専門家マフムート・ミスキ氏が2021年に発表した論文では、フェルラ・ドルデアナという植物がシルフィウムではないかと書かれています。この植物もセリ科オオウイキョウ属の植物で、トルコの中央アナトリア地方に自生しています。
この論文については「幻の薬草シルフィウム発見か?」というようなタイトルでネットニュースなどに取り上げられたのでご存じの方もいらっしゃるかもしれませんね。

ナショナル・ジオグラフィック日本版2022年10月9日の記事より

ナショナル・ジオグラフィック日本版2022年10月9日の記事より

と、ここまで複数の植物の名前を挙げましたが、どれが正しい説なのかは、結局の所まだ分かっていません。
シルフィウムについて、たくさんの記述は残っているものの、シルフィウムやラーセルの本体は発見されておらず、特定に至らないからです。

私個人の意見としては、シルフィウムはこれらの植物すべてだったのではないかと思っています。
専門家でもない限り、普段、数種類の動植物を区別せずに一つの名前で呼ぶことは良くあることです。私達のよく知っている食材や生物も、実は数種類の生き物だったりします。ましてや分類学など発達していない時代のことですからなおさらです。
ただし、古代ローマの人々もシルフィウムの微妙な違いに気づいており、「キュレナイカのシルフィウム」や「パルティアのシルフィウム」など、産地とともに薬効や香りの違いについて書き記したのだと思います。
今後古代ローマ時代の遺跡から良い状態のシルフィウムが発掘され、成分が分析されれば研究が進むかもしれません。

さて、イスタンブール大学のマフムート・ミスキ氏は料理史研究家のサリー・グレンジャー氏の協力を得て、シルフィウムを使った料理を試食したようです。

ナショナル・ジオグラフィック日本版10月9日の記事より

ニュースの記事によると
"レンズマメを、ハチミツ、酢、コリアンダー、リーキで調理し、フェルラ・ドルデアナで味付けした一品は、複雑で味わい深いものだった。一方、アサフェティダの樹脂を入れた方を味見した人々は顔をしかめ、ほとんど皿に手をつけなかった"
だそうです。
アサフェティダの料理が美味しくなかったのは単に入れすぎか、ミスキ氏の研究を賞賛する為の演出でしょう。
しかし、フェルラ・ドルデアナとフェルラ・アサフェティダの風味が全く違うものであったことは確かなようです。
フェルラ・ドルデアナの味はサリー・グレンジャー氏曰く、
「濃厚なソースでも、シルフィウムのフレーバーが果実や香辛料に隠れてしまうことがありません。青々とした風味があり、ソースに入っている他のハーブの特性を引き立ててくれます」
だそうです。食べてみたいですね。


しかし、残念な事に、このフェルラ・ドルデアナも現在絶滅が危惧されている植物なのです。現在、確認されている本数は600本、そのうち300本は植物園や研究機関で栽培されているそうです。

現代の我々でもキュレナイカ産のラーセルは謎の存在で手に入らない食材のようなので、次回の記事ではフェルラ・アサフェティダ、つまりパルティア産ラーセルをたっぷり使った料理を作ってみたいと思います。

 

参考文献

プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

『薬物誌』
ディオスコリデス著 岸本良彦訳・注 八坂書房 

古代ローマの食卓』
パトリック・ファース著 目羅公和訳 東洋書林

古代ローマの饗宴』
エウジェニア・サルツァ・プリーナ・リコッティ著 武谷なおみ訳 平凡社

『シーザーの晩餐 西洋古代飲食綺譚』
塚田孝雄著 朝日文庫

『食卓の賢人たち』
アテナイオス著 柳沼重剛訳・編

『ハーブ&スパイス辞典』
伊藤進吾 シャンカール・ノグチ監修 誠文堂新光社