にゃこめしの食材博物記

YouTubeチャンネル「古代ローマ食堂へようこそ」の中の人のブログ。古代ローマの食文化についての記事を中心に、様々な歴史や食文化について調べて書いているブログです。

【歴史解説】カリグラ 若く美しき狂気の皇帝

カリグラは古代ローマの三代目皇帝です。
若く美しい皇帝として即位したカリグラですが、次第に狂気に満ちた本性を露わにし、帝国を恐怖に陥れたのでした。カリグラを主人公に1980年に製作された映画『カリギュラ』は刺激が強すぎる故に一部で上映が禁止され「カリギュラ効果」と呼ばれる心理現象の由来ともなりました。
そんなカリグラは何をやらかし、心にはどんな闇を抱えていたのでしょうか。
破滅に向かってひた走るような彼の人生を覗いてみたいとおもいます。

カリグラの生い立ち

カリグラは古代ローマの三代目の皇帝です。西暦12年に生まれ、
本名はガイウス・ユリウス・カエサルアウグストゥスゲルマニクスといいます。

ゲルマニクスは軍隊の司令官として家族を連れてゲルマニアに駐留しており、幼いカリグラもそこで育ちました。

その時子供用サイズに特別に作られた軍服と軍靴を身に着けていた様子がとても可愛らしかったため、軍団のマスコットとして兵士たちから愛され、小さなカリガ(軍靴)を意味するカリグラというあだ名で呼ばれるようになりました。
彼は後にこの子供っぽいあだ名を嫌ったとの事ですが、ここではカリグラと呼ぶことにしたいと思います。

母大アグリッピナの祖父、つまりカリグラの曾祖父は初代皇帝のアウグストゥスであり、由緒正しい皇帝一族の血筋をもって生まれました。
兄弟は他に兄が二人と妹が三人、という大家族です。

アウグストゥスは次の皇帝に義理の息子であるティベリウスを指名すると同時に、カリグラの父ゲルマニクスティベリウスの養子にしました。つまりゲルマニクスは三代目の皇帝になるはずだったのです。

しかしティベリウスの治世の5年目に、突如として父ゲルマニクスは亡くなってしまいます(西暦19年カリグラ7歳)

さらにティベリウスと反目しあっていた母アグリッピナと兄二人は反乱分子として相次いで捕らえられ(西暦29年母・長兄、30年次兄、カリグラ17歳)
幽閉先で亡くなってしまいました。(西暦31年長兄死亡、33年母・次兄死亡、カリグラ19~21歳)

カリグラと妹たちはしばらくの間祖母アントニアの元で過ごし、その後カプリ島に隠棲していたティベリウスの元へと送られました(西暦31年、カリグラ19歳頃)

ローマの市民たちは彼もまた兄弟達のように亡き者にされるのだろうと噂しました。

しかし、予想に反してカリグラはティベリウスの元で6年間を過ごし、遺言によって亡き父に代わって皇帝に指名されたのです。(西暦37年3月、カリグラ24才)

若く美しい皇帝は人々に熱狂的に迎え入れられました。

遺言では、実は皇帝に指名されたのはカリグラひとりではなく、ティベリウスの孫ゲメルスと共同でという条件つきだったのですが、元老院議員たちはこれを無効とし、直ちに一切の権限と決定権をカリグラに与えました。

民衆は都ローマに入るカリグラを大歓声で迎え入れました。

皇帝となったカリグラはまず初めに、流刑先で亡くなった母親と兄の遺骨をローマに持ち帰り、霊廟に収めました。嵐の中船に乗り、自ら流刑先の島に赴いて骨を拾う様子は市民達の同情を買いました。

新しく治世を始めるに当たって、これまでに追放されていた者は全員許され、裁判中の者は全て無罪とされました。密告の類は今後一切受け付けないとして、書類は中央広場で焼き捨てました。

さらにローマ市民全員に即位のお祝儀を配り、税金も免除しました。元老院議員や騎士階級の者には豪華な晩餐会を開きお土産を配りました。

さらに市民の為に剣闘士試合や演劇、戦車競走などの見世物を次から次へと派手に催しました。先代の皇帝ティベリウスはこうしたイベントを好まないタイプの皇帝だったので、娯楽に飢えていたローマ市民たちは毎日がお祭りのような日々に大喜びです。

市民達も元老院もカリグラを称えました。

しかし、カリグラは突如熱病に倒れます。ユダヤフィロンの記録によるとそれは治世の8カ月目の事でした。暴飲暴食や乱れた性生活が原因だろうと書いていますが、実際の原因は分かりません。幸いにもカリグラは病の床から立ち直り健康を回復しました。

しかし、病気が原因かどうかは分かりませんが、この頃からカリグラの残虐な本性が露わになって来るのです。

カリグラの大規模な奇行と金策

カリグラに関する同時代の資料はあまり多くありません。

ここで引用する記述の多くはカリグラの時代より100年程後の歴史家、カッシウス・ディオとスエトニウスによるものです。
カリグラは治世の後半は元老院と対立した為、後の歴史家たちに極端に悪く書かれている可能性があるのです。ここでご紹介するエピソードもどこまでが真実か分からないようなものも含まれますがご了承ください。

カリグラは、邪魔になる人間を次々と排除していきました。
まずは共同皇帝に指名されていたティベリウスの孫、ゲメルス。
次に義理の父(最初の妻の父)のユリウス・シラヌスやカプリ島時代から仕えてくれた近衛隊長のマクロ、そして祖母のアントニアらを殺したとも自害に追い込んだともされています。

元老院議員達もカリグラの逆鱗に触れると命を狙われ、危害は市民達にも及びました。

カリグラが熱病に倒れた時に、皇帝の命が助かるのなら自分は死んでも良い、と祈った人物には「約束を果たせ」といって土手から突き落としました。つまり、カリグラは助かったのだから祈った者の命がまだあるのはおかしい、という理屈でした。

カリグラは親族を次々と破滅に追いやりましたが、3人の妹達は溺愛し全員と近心相姦の関係にあったと噂されています(誤解であるとする説もあります)。

妹たちの中でもとくにドルシラという妹を溺愛しました。彼女が病気で亡くなってしまった時は国を挙げて壮大な葬儀が行われ、ドルシラの神格化を命じます。
喪中のあいだ人々は家族と談笑すると死刑になりました。

カリグラは4回結婚しています。
最初の妻とは皇帝に即位する前に結婚しましたが不幸なことにお産で亡くなってしまいました。
2回目と3回目の結婚は、人妻を夫と別れさせて自分の妻にしたものの、すぐに飽きて離婚しています。
4回目の結婚相手はカエソニアという女性で、やはり人妻でした。贅沢で頽廃的でスキャンダラスな噂のある女性でしたが、そこがカリグラと気が合ったらしく娘が一人産まれました。この娘は結婚してすぐに生まれたため、計算が合わないのですが、カリグラは娘は神々の力で産まれたのだと言っていたそうです。
もちろん結婚しても乱れた性生活は続きました。饗宴の最中に気に入った人妻がいると別室に連れ込んだといわれています。

カリグラは自らの権力を示すために壮大な見世物を計画しました。
湾を隔てた二つの街、プテオリ(現ポッツォーリ)とバイアエ(現バイア)の間に帝国中の船を並べて大きな船橋を作りました。船の上には土を盛ってアッピア街道のように仕上げ、その上を二日間かけて盛大なパレードを開催しました。
カリグラは得意満面だったようですが、海上輸送が滞り食糧不足に陥ったともいわれています。

ローマから近いネミ湖という湖に70mもある大型船を二隻も建造させました。船尾に宝石をちりばめ、内部には広場や食堂や大浴場があったそうです。この船は実在し、1928年に発掘されましたが残念なことに戦争で焼失してしまいました。

現在のサン・ピエトロ大聖堂の辺りには戦車競走のための巨大な競馬場を建設しました。長さ540m幅100mもあったこの建造物は2万人もの観客を収容できたといいます。さらにそこへエジプトから巨大なオベリスク(石塔の記念碑)を持ってこさせました。
オベリスクは現在でも残っています。

カリグラは戦車競走をとても好み、お気に入りの馬に大理石の像と象牙の飼い葉桶、紫に染めた毛布に宝石の首輪と奴隷を与えました。しまいにはこのを執政官の地位に就けようとしたと伝わっていますが、これはおそらく冗談だったのでしょう。

市民達を楽しませるための剣闘士試合はいつも派手に催され、剣闘士同士が戦うだけではなくアフリカから連れてきた猛獣を使うこともありました。
ある時、猛獣の餌に高価な家畜が使われている事を知ったカリグラは、家畜の代わりに人間を餌にすることを思いつき、囚人を一列に並ばせました。そしてそれぞれの罪や判決文に一切目を通すことなく「あの禿からこの禿までを連れていけ」と命令したそうです。

カリグラは皇帝という立場に飽き足らず、絶対的な名誉を求め神になろうとしました。
豪華な衣装に黄金の顎髭をつけ、神々の象徴である稲妻や三叉の鉾などを身に着けました。時には愛の女神ウェヌスの扮装で人々を驚かせました。
邸宅の一部を中央広場まで広げてそこにあった神殿と繋げ、神々と一緒に自分も崇拝させました。さらにギリシアの神々の像をローマに集め、頭部を自分の顔に作り変えるよう命じたそうです。

ある時カリグラは処刑する予定であったシリアの提督に「自分は今、月との会話を楽しんでいるのだがお前たちには女神が見えるか」と尋ねました。シリアの提督は
「神の姿は神にしか見えません」と答えてカリグラに気に入られたため、処刑を免れたどころか重用されるようになったといいます。

自分専用の神殿も建てさせます。そこに等身大で黄金のカリグラ像を設置し、毎日自分と同じ服を着せさせました。

 

さて、このような壮大で贅沢な振る舞いばかりしているとお金が無くなるのは当然のことです。カリグラはなんと、先代のティベリウスが残した国家の為の莫大な金額を一年も経たない間に使い果たしたのです。

困ったカリグラは人々から財産を巻き上げるようになりました。

食べ物などはもちろん輸送や売春や裁判などあらゆる物事にに税金をかけました。

自分や先祖の家財道具をオークションにかけ、法外な値段で売りつけました。代金を支払えずに自殺に追い込まれた人もいました。

裕福な人々は陰謀を企てているなどの理由で財産を没収されました。

遺産相続の際は家族などとともに、カリグラも相続人に指名するように定めました。
しかも、人々がこれに従うと「相続人に指名しておきながら生き続けるとは何事か」と、早く死ねと言わんばかりに毒入りのご馳走を贈ったといいます。

娘が産まれた時は養育費のための寄付を受け付けてやろうと宣言し、新年にはお年玉をうけつけるであろうと宣言して邸宅の玄関先を巡ったといいます。

これほどまでに国家の財政が逼迫している状態にありながら、カリグラは軍事的な成功をもとめて軍事作戦を始めるのでした。

カリグラの苦悩と心の闇

24歳で即位し、それまでカプリ島にいたカリグラには政治的にも軍事的にもキャリアを積む機会がありませんでした。
その為か、カリグラは軍事的な成功を欲しがったようです。

ある時、森へ遊びに行ったカリグラは突如ゲルマニアに遠征しようと思いつきます。用もないのに軍隊を各地から呼び寄せ、遅れた者を𠮟責しました。

又ある時はゲルマン人の捕虜をあらかじめ森に隠れさせておき、騎兵隊とともに彼らを捕まえると松明を灯して意気揚々と連れ帰ったといいます。

カリグラが次に目をつけたのは海を隔てて向こう側のブリタニアでした。攻めてくる敵もいないのに、いかにも戦闘態勢というように北海の沿岸に隊列を敷き、投石機(カタパルト)や弩砲(バリスタ)を配置しました。
そして兵士達に「貝殻を拾って兜や懐を一杯にせよ、これは北海の分捕り品だ」と言い放ったといいます。
その後、戦勝記念碑として高い灯台を建て、元老院あてに凱旋式の準備を求めました。

こうした茶番とも思える行動をどう解釈するかは様々に議論されています。
しかし、カリグラが成功体験を渇望したことは想像にかたくありません。

カリグラは自分の治世について「今は目立つような国家の不幸は全くない。私の世の中の繁栄のおかげで忘却の危機にさらされている」と言い、軍隊の壊滅や火災、大地の亀裂などの国家の不幸を願っていたといいます。
何か活躍の場と功績が欲しかったのでしょう。

カリグラは嫉妬心がきわめて強く、攻撃的でした。人々の功績を称える像は叩き壊し、高貴な家柄の者は家紋を奪い、美しい髪をもつ者は髪を刈られました。他者の優れた性質に敵対心をむき出しにし、美点があるとそこを傷つけたといいます。

歴史家スエトニウスはカリグラの不安定な精神についても描写しています。

幼少の頃から癲癇と思われる症状に悩まされ、時に失神して起き上がることも精神を保つこともできなくなったといいます。

普段は自らを神と称していたカリグラですが、雷鳴や火山の鳴動など神々の存在を思わせるような自然現象には恐れおののき、両手で頭を覆って寝台の下に隠れました。

夜は不眠症に悩まされ三時間以上眠ることができず、いつも苛立っていました。少しでも眠ると悪夢にうなされるので夜の間、横になっていられず長い柱廊をさまよい歩き、日の出を待ち望んだそうです。

そして朝がくると不安な精神を打ち消すかのように過度に攻撃的になるのでした。

しかし、地獄のようなカリグラの治世には誰かが終止符を打たねばなりません。

紀元41年のある日の昼頃、
妻と娘と共に劇場の通路を歩いていたカリグラに近衞隊副官のカエレアという男が背後から切りつけました。
地面に倒れつつ「まだ生きているぞ」と言い放つカリグラの周りを近衞隊が取り囲み、「反復せよ!」の合図とともに一斉に刀で突き刺しました。
全身に30箇所以上の傷を受け、カリグラは絶命しました。
妻カエソニアは剣で突かれ、娘は壁に叩きつけられて殺されました。

カリグラ29歳、3年と2か月の治世でした。

これがローマ帝国で初めて近衞軍が皇帝を暗殺した事例です。近衞兵達はカリグラの叔父クラウディウスを皇帝に擁立し、元老院が認めました。この後のローマ帝国ではしばしば近衞軍が皇帝を暗殺したり擁立したりする力をもつようになります。

カリグラの饗宴

ここからはカリグラの饗宴に関するエピソードをお話ししましょう。

派手な事を好んだカリグラは自身の饗宴にも奇妙奇天烈な食べ物や宴会を工夫したと記録されています。会食者の前には黄金製のパンや料理が提供されたそうです。

また、非常に高価な真珠を酢に溶かして飲んだともいわれています。クレオパトラにも同じような逸話があり、そちらの方が有名ですね。

カリグラが自らを神として祀らせた神殿には珍しくて高価な食材が運ばれました。
フラミンゴ、クジャク、黒雷鳥、雉、青肉垂と赤肉垂のホロホロ鳥などです。これらが毎日種類を変えて毎日犠牲として捧げられたそうです。

気前のよいエピソードも残っています。市民の為に様々なイベントを開き、劇場内ではパンや様々な食べ物を詰め合わせた籠を一人一人に配りました。
このような会食の席で一人のローマ騎士が、カリグラの真向かいで人一倍陽気にガツガツ食べている様子を見て、カリグラは自分の分もその騎士に分けて与えたそうです。

しかし、気前が良くてもカリグラの饗宴には絶対に参加したくありません。

真偽の程はともかく、カリグラは饗宴の最中に拷問を見るのを好んだなどの残虐エピソードは枚挙にいとまがありません。ある時は息子の処刑を目の前で父親に見せておきながら、その直後に饗宴に招待し、楽しく話をするようにと強要しました。

またある時には豪華な饗宴の席でカリグラが突然大声をあげて笑い始めたため、側にいた二人の執政官がその訳を尋ねました。するとカリグラは「私がちょっと頷くだけでたちまちそなたら二人の首が飛ぶと思うと面白いのだ」と答えたそうです。

また饗宴中も性には奔放で、気に入った人妻がいると別室に連れ込んだそうです。そしてしばらくすると戻ってきて夫の前でその女性の身体の特徴や良いところ、悪いところを赤裸々に話しはじめたといいます。

これらのエピソードはすべてが真実ではないのでしょうが、このようなカリグラの贅沢で残虐で性に奔放な饗宴の記述は人々に強い印象を残したようです。
カリグラやその他の権力者、それに数々の美食家のエピソードなどがいろいろ合わさった結果、古代ローマの饗宴といえば堕落して頽廃的なステレオタイプのイメージが後に作り出されてしまいました。

参考文献/参考HP
年代記
タキトゥス著 国原吉之助訳 岩波文庫

ローマ皇帝伝
スエトニウス著 国原吉之助訳 岩波文庫

『ガイウスへの使節
フィロン著 秦 剛平訳 京都大学学術出版会

A Digital Library of Classical Antiquity
古代古典のデジタル図書館 レキサンドリア
https://lexundria.com/ より
『ローマ史』59巻 カッシウス・ディオ
ユダヤ古代史』19巻 フラウィウス・ヨセフス

古代ローマ料理 再現して作った品々を一気に公開…その2

前回から引き続き、文献に基づいて再現した古代ローマ料理を公開していきます。
食事や文化を知ることで古代ローマが身近に感じること間違いなし!?

前回の記事はこちら

鶏肉のパルティア風

古代ローマにはシルフィウムという植物がありました。万能の薬草であり、しかも美味しい調味料だったシルフィウムはローマ人達に採り尽くされ、ついに絶滅してしまったといわれています。困ったローマ人達は隣国のパルティアからよく似た植物とそこからとれる調味料を輸入しました。それは絶滅したシルフィウムとは味も香りも全く違うものでしたが、調味料として古代ローマ使われ続けました。

実際にパルティアにこの料理があったかは分かっていませんが、パルティアから輸入した調味料をふんだんに使うことからローマ人は「パルティア風」と名付けたようです。

詳しい作りかたはこちらの記事かYoutubeからご覧頂けます。

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豚の脳のパテ風

美食文化が花開いた1~2世紀のローマ帝国
饗宴は人間関係を築いたり、仕事の話を進めたりと社会生活においてなくてはならない者でした。招待主は凝った料理を用意してやってくる賓客を驚かせることに情熱を注ぐのでした。例えばクジャクやフラミンゴ、ヤマネ、ウツボなどです。
そんな饗宴料理の材料によく使われるものの一つが豚の脳でした。お粥に入れたり、卵と混ぜて詰め物に使ったり…
古代ローマの美食家は脳のクリーミーなコクを好んだようです。

詳しい作り方はこちら

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豚の子宮のソーセージ

古代ローマでは豚肉がとても好まれました。
庶民の食事から豪華さを競う饗宴、そして皇帝の食卓にまで豚は登場します。
博物学プリニウス曰く、“他の肉はそれぞれ一つの風味しかもたないが、豚は50の風味を持つ”のだとか。
古代ローマの人々は豚の育て方や部位ごとの味、食肉にする時期などにかなりのこだわりを持っており、特に好まれた部位は雌豚の乳房や胃、子宮でした。

こちらの料理は豚の腸の代わりに子宮を使ったソーセージのような料理です。
子宮はサクサク、プリプリした食感で皮の食べ応えがすごいソーセージ、といった印象です。

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古代ローマヒョウタン料理

古代ローマではヒョウタンが栽培されており、若い実は食用に、成熟した実は水入れなどに使われました。
現在でもイタリアでは一部で食用のヒョウタンが栽培されており、ズッキーニと同じように調理して食べるようです。(ちなみにヒョウタンもカボチャもイタリア語でzuccaというそうなので、紛らわしいです…)
食用ヒョウタンが手に入らなかったので
ユーラシア大陸原産のウリ科の野菜 … 冬瓜、白瓜
アメリカ大陸原産ではあるが食味が似ているらしい … ズッキーニ
という三種類のウリ科の野菜で代用して作っています。
↓こちらは魚醤とワインのシンプルな調味料で仕上げたあっさりとした料理

↓こちらはクミンとハーブ類のソースで仕上げた、パンチのある味

詳しい作り方はこちらから

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マグロのソテー古代ローマ風ソース

古代ローマの人々は海産物が大好きでした。マグロも古代ローマで好んで食べられていた魚です。プリニウスの『博物誌』によればマグロは首、腹、喉の部分が珍重されたそうです。ちょうど脂ののった部位が好まれていたことが分かります。
ソースは魚醤、蜂蜜、玉ネギ、赤ワインにハーブ類を混ぜ合わせて作っています。ドミグラスソースか甘酢餡のような、甘みと酸味としょっぱさが合わさった味に仕上がりました。



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ここまで古代ローマの料理を色々つくってみた感想は、古代ローマの料理はどれも日本人の口に合うということです。
私自身は和食(特に海鮮と居酒屋料理がメイン)の料理の仕事をしていた経験から、どうしても和食の発想に偏ってしまっている部分はあるかもしれませんが、
欧米の研究者のレシピの解釈はどうもガルム=魚醤をうまく扱い切れていない部分があるように感じてなりません。

しかし、現在に残っている『アピキウスの料理書』のレシピが不完全であるからこそ、その余白をどう解釈するかの違いが生まれ、面白いのだとも思います。

これから先もどんどん古代ローマの料理を作って研究してみたいと思います。

参考文献/
『アピーキウス 古代ローマの料理書』ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂
その他多数は各リンク先記事又はyoutube概要欄に記載

 

古代ローマ料理 再現して作った品々を一気にに公開…その1

私はいろいろな国、地域、時代の食文化を研究しているのですが、その中でも特に力を入れているのが古代ローマの食事と文化です。

これまでに文献をもとに作って試食した古代ローマの料理の数々はブログやYoutubeで発信したりしているのですが、ここで一挙にまとめて公開してみたいと思います。

アスパラガスのパティナ

パティナとは平皿や平鍋の意味です。
アスパラガスは古代ローマでも好まれた野菜で、アスパラガスが描かれたモザイク画なども残っています。アスパラガスをハーブや魚醤と一緒にすり混ぜ、卵と混ぜてオーブンでふんわりと焼き上げた料理です。

詳しいレシピや解説はこちらの記事からご覧頂けます。

大エビの古代ローマ

古代ローマの美食家アピキウスは大きなエビが獲れるという噂を聞いて、アフリカのリビア属州まではるばる船で旅をしたといわれています。しかも、リビアのエビが期待したほど大きくなかったと気づいたアピキウスは陸にあがることもなく、そのままローマに引き返してしまったのだとか。
そんな美食家アピキウスの名がついた『アピキウスの料理書』より、エビのソースを資料に基づいて料理しました。

魚醤と蜂蜜をベースにワインやハーブの風味豊かなソースはプリプリのエビにとてもよく合いました。

詳しい作り方はこちらから

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ウズラで代用して再現した古代ローマのヤマネ料理

古代ローマの裕福な美食家達は普通の食材に飽き足らず、さらなる珍味や饗宴の演出の為にいろいろな食材を追い求めました。
クジャク、オウム、フラミンゴ、ツグミやズアオアトリなどの小鳥類、カタツムリや豚の脳、シビレエイにウツボなど…
ヤマネもそうした食材の一つでした。グリラリウムという内側が螺旋状になった壺の中で肥育して食べたそうです。

さすがにヤマネは食材として流通していませんので、代わりにウズラを使って古代ローマのヤマネ料理を再現しています。中に豚挽肉を詰めてオーブンでパリッと焼き上げました。骨ごと食べられます。

詳しい作り方はこちら

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古代ローマの調味料ガルム

古代ローマ料理の味付けにはガルム(又はリクァーメン)と呼ばれる調味料が使われました。ガルムとは魚醤の事です。つまりガルムは日本のしょっつるやタイのナンプラーベトナムのヌクマムなどと似た調味料だったのです。
魚を塩漬けを発酵させることで生まれる独特の旨味が古代ローマ料理の美味しさの秘訣だったのかもしれません。

『ゲオポニカ』という古代の文献には火を通して即席ガルムを作る方法が書かれていましたので試してみました。かなりしょっぱいですが、魚の旨味が溶け込んだ味わいがします。しかし、しっかりと発酵させた魚醤の味にはかないませんでした。

詳しい作り方はこちら

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そら豆のウィテリウス風

ウィテリウスは古代ローマ8代目の皇帝です。
西暦69年のローマはガルバ、オト、ウィテリウスと三人の人物が皇帝に擁立されては数カ月で失脚する、という激動の年でした。
ウィテリウスは食べる事が大好きなだけの無能な人物でしたが、単純で扱いやすい性格だったため軍隊に担ぎ上げられ皇帝に即位します。その治世のあいだに行ったことといえば、毎日朝から晩まで饗宴でご馳走を食べる事でした。
その後ウィテリウスは、ローマ帝国東方の属州の軍団を率いたウェスパシアヌス軍に捉えられ、わずか8カ月の治世と人生の幕を閉じたのでした。

古代ローマのレシピ集である『アピキウスの料理書』にはウィテリウスの名がついた料理が載っています。その中からソラマメをつかった料理を再現しました。

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古代ローマの麦のお粥

パンとサーカス」という言葉で表される通り、古代ローマでは食事の中心はパンでした。しかし、麦のお粥も古代ローマの人々の大好きな食べ物でした。
庶民の食卓にあがることはもちろん、裕福な貴族層であっても饗宴の一品にお粥が出されることもあり、古代からパン食中心であったギリシア人に比べて、ローマ人は「お粥すすり」と揶揄されるくらいにお粥をよく食べました。

写真は引き割りのスペルト小麦を柔らかく似て、ガルム(魚醤)とアレック(魚醤の副産物の塩辛のようなもの)を添えただけのお粥です。ふすま部分が取り除かれておらず、茶色で玄米状態のスペルト小麦は玄米のお粥やソバの実のお粥のような素朴な風味です。

詳しいレシピ…というほどでもないですがこちらの記事にも書いています。

古代ローマの麦粥にかけて食べる豚肉のワインソース

古代ローマの街には気軽に食事をとることができる飲食店がたくさんありました。
軽食の店バール、居酒屋のようなタベルナ、たっぷり食べられる食堂のようなグルグスティウムなど、種類は様々、そして使われていた食材も多彩なものでした。
ポンペイの、ある飲食店の遺跡では容器から豚、魚、カタツムリなどの成分が検出されたそうです。
『アピキウスの料理書』は基本的に美食家のためのレシピ集ですが、その中でも材料が素朴でかつ栄養がある、古代ローマの庶民でも食べられそうな料理を選んで作ってみました。
味付けは魚醤がベースですが、赤ワインの酸味と豚肉やハーブの風味が合わさって、全体的にハヤシライスによく似た味わいに仕上がっています。

詳しい作り方はこちら

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さて、他にも再現した古代ローマ料理はあるのですが、記事が長くなってきましたのでその2に続きます。

参考文献/
アスパラガスのパティナのレシピのみ
古代ローマの饗宴』
エウジェニア・S・P・リコッティ著 武谷なおみ訳 平凡社
『Cookery and Dining in Imperial Rome』Apicius著  Joseph Dommers Vehling著・英訳

その他の料理のレシピ参考
『アピーキウス 古代ローマの料理書』ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂

その他多数は各リンク先記事又はyoutube概要欄に記載

古代ローマ料理 マグロのためのソース 再現レシピ

再現!古代ローマ料理のコーナーです。

前回までの記事で博物学プリニウスと著書『博物誌』について書きました。

プリニウス自身は同時代の美食家達のように食道楽にはしる人物ではありませんでした。しかし、食材に興味をもたなかったわけではありません。『博物誌』には食材となる生き物の利用方法や、人間との関わりがたくさん記述されています。

例えば『博物誌』におけるマグロの記述はこうです。

“マグロはいくつかに切り裂かれる。そして首と腹が美味とされる。新鮮であれば喉もそうだ。マグロの他の部分全部が筋肉もなにもくるめて塩漬けにして保存される。その(塩漬けの)切り身は樫の木片に似ているのでメランドリアと呼ばれる。その(塩漬けの)切り身でいちばんなのは尾に接する部分だ。それは脂がないから。もっとも珍重されるのは喉に接する部分だ。”

古代ローマではマグロの脂ののった部分が好まれていた事、対照的に塩漬けの保存食にするには脂のない部位が良質だとされていたことがよくわかります。

古代ローマのマグロ料理はどんな味だったのか気になりますね。
早速作ってみましょう。

『アピーキウス 古代ローマの料理書』三省堂 より

レシピの参考文献であるアピキウスの料理書には材料も、詳しい調理手順も書かれていません。作る人によって再現される料理が変わってきます。
ここから先は私が作るとどうなるのかという視点でご覧いただければと思います。

材料

マグロ      サク1本(150g)

小麦粉        5g

「 玉ねぎ      150g(小1個) 
     レーズン     10g
       コリアンダー(粉末)  小さじ1/2
  タイム(粉末)     小さじ1/2
A  クミン(粉末)     小さじ1/2
  コショウ     少々
  ワインビネガー  大さじ1
  蜂蜜       大さじ1
  赤ワイン     100ml
  L   ヌクマム     大さじ1
 (魚醤なら何でも良いです。商品によって塩分量が違いますので調節して下さい。)

作り方

まずはマグロに軽く塩をふり、下味をつけておきます。

下味を馴染ませている間にソースを作りましょう。
タマネギは粗めのみじん切りにします。レーズンも細かく刻んでおきます。

鍋にオリーブオイルをたっぷりと注いだらタマネギを炒めます。
しんなりしてきたら赤ワイン100mlを注ぎ、煮立ててアルコールをとばしながらAの材料をすべて投入します。全て混ぜ終わったら、一旦火を止めましょう。

小麦粉5gを水80mlで溶いて、水溶き小麦粉を作り、鍋に入れます。
木べらでよくかき混ぜながら弱火で2分程加熱します。小麦粉に火が通り、とろみがついたらソースの完成です。

肝心のマグロの方ですが、どう調理したのか記録がないので分かりません。
料理書の次の項目は「マグロの水煮に用いるソース」となっていますので、茹でる以外の調理法を想定していたのだと思います。炭火で炙ったりオーブンで焼いたりしたのかもしれませんが、想像するしかありません。

今回はオリーブオイルをひいたフライパンでさっとソテーしてみたいと思います。
強火で全ての面をサッと焼き、後は火を止めてフタをして2~3分、余熱で火を通します。

(古代ローマに魚を生食する文化はありませんでしたが、中をレアに仕上げた方が日本人の口には合うかもしれません。お好みで調節して下さい)

お皿に作っておいたソースを盛りつけ、好みの大きさに切り分けたマグロを並べたら完成です。

さあ、試食してみましょう!

ソースはワインやビネガーの酸味と、タマネギや蜂蜜の甘み、そして魚醤の塩分が加わってとても濃厚な味に仕上がりました。味のバランスでいうと甘酢餡やドミグラスソースのような甘くてしょっぱい、濃厚な感じです。

クミンやタイムなどのハーブが良いアクセントとなり、食欲をそそります。

マグロはしっとり柔らかく焼き上げる事ができました。ソースとの相性もバッチリです。

しっかりと食べ応えがあり、小骨もなく食べやすいので、これなら忙しいプリニウスにも気に入ってもらえるかもしれません。

参考文献:『アピーキウス 古代ローマの料理書』
      ミュラ・ヨコタ=宣子 訳 三省堂

プリニウスの博物誌に登場する怪物達

古代ローマの百科事典ともいえる、プリニウスの『博物誌』。
全37巻に及ぶ膨大な記述は、地理や自然科学、薬学など多岐にわたります。
1世紀の古代ローマで書かれたものなので、すべてが科学的に正しい内容ではなく、現代のわれわれから見ると、不思議だったり、驚くような記述が含まれている部分もあります。今回はそういった面白い記述の部分に関して紹介していきたいと思います。
プリニウスの人物像や『博物誌』のたどった歴史などは前回までの記事に紹介しておりますので、興味のある方はそちらもお読みいただければと思います。

さて、この二冊は日本でプリニウスを紹介した中で最も一般に普及したといえる本です。
内容は『博物誌』から変な生き物など、奇抜な記述の部分だけを抜き出して紹介したエッセイです。

『私のプリニウス』 『プリニウスと怪物たち』 澁澤竜彦 河出文庫

実際にはこの本で紹介される怪物や幻獣などが登場するのは『博物誌』の膨大な内容のうちごく一部なのですが、著者の澁澤さんの本は特定の世代にかなり人気があったらしく、プリニウスの博物誌といえば、妖怪大百科のようなイメージが広がってしまいました。

ただ、そうした怪物に魅力を感じるのは昔の人も同じだったらしく、写本や物語などに何度も取り上げられ、後の創作物に影響を与えた部分も少なからずあるようです。
それに、やはり面白いので『博物誌』の怪物達について簡単に紹介したいと思います

モノコリ(又の名をスキヤポデス)

“クテシアス(※)はモノコリといって脚が一本しかなく跳躍しながら驚くべき速力で動く人々の種類について述べている。またその種族は「傘足種族(スキヤポデス)」と呼ばれるが、それは暑い季節には、仰向けに寝て、その足の陰で身を守るからだと。さらに西方には首がなくて目が肩についている連中もいるという”

このような荒唐無稽な話をどこまでプリニウスが信じていたかは研究者たちを悩ませる部分でもあります。
この部分は紀元前5世紀の古代ギリシャの医師で歴史家クテシアスの『インド史』という書物からの抜き書きです。
1世紀のローマ人にとって、インドはまだまだ謎とロマンに満ちた辺境の地だったのかもしれませんね。

ミュンスター『コスモグラフィア』の挿絵より 1552年に印刷されたもの
左端がモノコリ、画像:Wikimedia Commonsより

不死鳥

プリニウスはこれは多分架空な話と思うが、と前置きをしてから不死鳥について書いています。

“アラビアには不死鳥がいるが、全世界にたった一羽しかいないのでまず見られないという。(中略)それが歳をとりかかると桂皮と乳香の小枝で巣をつくり、それに香料を詰め、死ぬまでそこに横たわっている。すると骨と髄からウジが生まれ、それが成長してひな鳥になる。そして前の鳥の葬儀を行い、太陽神の祭壇に置く”

現在メジャーな炎にとびこんで若返る、火の鳥のイメージとはずいぶん違いますね。

『動物寓意譚』13世紀イギリス 画像:Wikimedia Commonsより

サラマンドラ

原文ではSalamandraですが、翻訳によってはサンショウウオとなっています。

サラマンドラというのはトカゲのような形をし、斑点に覆われた動物だが、大雨の時しか姿を見せず、晴天の時は消え失せる。非常に冷たいので、氷がそうであるように、火に触れると火は消えてしまう。口からは乳のようなよだれを出し、触れるとその部分の毛が抜け、変色し、破れて湿疹になる。”

この記述はアリストテレスの記述をもとにしたのではないかと言われています。炎の中に住んだり、火を吐いたりするサラマンダーのイメージは後の時代に付け加えられたもののようです。

ディオスコリデス『薬物誌』の挿絵にみられるサラマンドラ
ウィーンの写本、6世紀頃 画像:Wikimedia Commonsより

一角獣

一般的な一角獣のイメージといえば白馬の額にイッカクの牙をつけたような見た目でしょうか。

タペストリー「貴婦人と一角獣」フランス15世紀末頃 画像:Wikimedia Commonsより
この頃には現在我々が想像する姿の一角獣に。ただし蹄は割れているので実は偶蹄目かも?

しかし、古代のユニコーンの姿は全く違ったようです。

“インドで最も獰猛な動物は一角獣で、これは身体の他のところはウマに似ているが、頭は雄鹿に、足はゾウに、尾はイノシシに似ていて、深い声で吠える。そして額の中央から突出している2キュービット(約80cm)もある一本の黒い角をもっている。この獣を捕獲するのは不可能であるという。”

これは…サイではないでしょうか…?


このように『博物誌』では、はるか遠くの民族や動物などは幻想的な記述が混ざっています。情報の伝達手段も限られたこの時代の事を思うと無理もありません。

しかし、かなり身近な存在なのにプリニウスが最も恐れたのはこの生物ではないか、と思うような記述を見つけました。

その生物とは…女性です。

“女性の月々の下りもの(経血)に触れると、新しいワインは酸化し、作物は成熟しない。接穂は枯死し、田圃の種子は干上がる。木々の果実は落ちる。明るい鏡はそれを映しただけで曇り、鋼鉄の切り口も象牙の艶も鈍る。ミツバチの巣も死ぬ。それを舐めると犬は発狂し、毒が染みこんで、それに咬まれると治らない。”

生理の女性が集まったら国を滅ぼせそうですね。

プリニウスにとって女性は異国の怪物たちより不可解で恐ろしいものだったのかもしれません。

 

参考文献/『プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

参考文献ではないが紹介した本/
『私のプリニウス』『プリニウスと怪物たち』澁澤竜彦 河出文庫

 

プリニウスの『博物誌』その構成と内容

前回の記事では『博物誌』が1世紀の古代ローマから現代までどのように伝わって来たかを解説しました。
今回は『博物誌』に書かれている内容について、すべてはお伝え出来ませんが各巻の概要だけご紹介していきたいと思います。

私の手元にある本では全37巻が3冊にまとめられている。

『博物誌』は全37巻で構成されています。

1巻は目次です。2巻以降に書かれている内容と参考文献、その作家を列挙してあります。参考文献の中には歴史の中で失われてしまった著作も多く含まれており今日でも貴重な資料となっています。

2巻は宇宙や気象や地学に関する事柄が書かれています。
宇宙が球体であること、元素が4つであること、地球が球体であること、変わった気象現象の記録、地震の原因が星なのか風なのかという考察、などが書かれています。
日蝕や月蝕について「太陽はそれを横切る月の通過により隠され、月は地球の遮断によって隠される」と科学的に正確な記述が書かれている部分もあり、驚かされます。

3巻から6巻は地理に関する事柄が書かれています。
広大なローマ帝国の属州の地理的特徴や都市、気候、民族などがとても精緻で詳細に述べられています。諸外国についても書かれており、インドや中国、アフリカ内陸部まで記述は及びますが、遠くの地域になるほど不正確で疑わしいものになっていきます。しまいには上唇と舌をもたない種族やライオンやヒョウが主食の「野獣食人」、犬の顔をもった種族などが登場します。

7巻人間についてです。
カエサルの精神力やポンペイウスの業績などと並んで異常な視力の持ち主、水分を摂らずに生きた人、もっとも高値がつけられた奴隷など、様々なジャンルのすごい人たちに関する記録が列挙され、さながらテレビ番組のようです。
さらには首がなく肩に目がついた種族や半身半獣の種族などに関する記述もあります。人間の妊娠、出産について書かれている部分もあります。

8巻から11巻までは生き物についてです。
8巻は陸生動物についてです。馬やヒツジなど身近な家畜の他、ゾウについてもかなり詳しく記述されています。
9巻は水生生物です。イルカについてかなりの熱量で語られているほか、高級で贅沢な食材としての魚、真珠貝や染料のムラサキ貝等についても興味深いです。
10巻は鳥類です。様々な鳥の見た目や性質が述べられています。又、鶏やガチョウの肥育方法などにも触れられています。
11巻の前半は昆虫についてです。かなりの項目がミツバチに関する情報で占められています。後半は目、歯、心臓や胃、毛髪など人間や動物の身体のパーツについての記述です。

12巻から19巻は植物と植物の栽培や利用についてです。
12,13巻は外国の珍しい木やそこからとれる香料、ゴム、パピルスなどについて書かれ、
14巻では葡萄とワイン
15巻では果樹の栽培や利用について、
16巻は森林の樹木の利用について書かれています。
17巻は樹木栽培について、土づくりに接ぎ木や剪定とかなり専門的な内容です。
18巻穀物についてです。小麦や大麦の他雑穀や豆類について季節ごとの農作業や貯蔵、利用のしかたなど、かなり具体的かつ詳しい農業書、といった内容です。
19巻は冒頭で亜麻などの繊維植物について述べられ、その他大部分は菜園と栽培される植物についての記述です。カブ、レタス、タマネギなどなじみ深い野菜が登場します

20巻から27巻は植物とその薬効についてです。
膨大な植物の薬効が列挙され、プリニウスがもっとも力を注いだ部分ではないかといわれています。迷信や伝承によるものも多いですが、当時の医薬の知識の全てを詰め込んだような内容です。一部はその後抜粋されて「プリニウス医学」として中世ヨーロッパに普及しました。
20巻は菜園植物
21巻は花
22巻は草からとれる薬剤について
23巻は果樹や栽培された樹木からとれる薬剤について、
24巻は森林の樹木からとれる薬剤についてです。
25巻では冒頭で植物利用の歴史や伝説とその植物の薬効が語られます。
25巻の後半と26巻は目の薬に用いる植物、鼻の薬に用いる植物、と症状別に植物と薬効、利用方法が語られます。他にもお腹、皮膚、脱臼、腫れ物、熱病、痛風に効く薬など…一番実用性が高そうな部分ですね。
27巻はその他植物の薬効です。

28巻から30巻は主に陸生生物から得られる薬効について書かれています。
動物別にその薬効が書かれたり、症状別に動物が列挙されたり、途中で突然医学の起源について書かれたり、魔術の起源や魔術を行うドルイド僧やマギ僧への批判などが書かれたりします。
内容の構成はめちゃくちゃですが面白い部分でもあります。

31巻は水についてです。海水や塩、泉の水、温泉の薬効について述べられています。古代ローマの魚醤であるガルムやアレックについての記述もあります。

32巻は水生生物の薬効についてです。
症状別に薬効のある水生生物が挙げられている他、身体は小さいのに大きな船を動けなくしてしまう謎の魚コバンザメ、見ただけで流産し触れると数日後に死んでしまう不思議な生物ウミウサギの話なども書かれています。

33巻と34巻は金属や合金についてです。
指輪や貨幣、装飾品や彫刻についても語られます。
35巻は絵画と画家や絵具について、
36巻は大理石と建造物について、
37巻は宝石についてです。

最後に母なる自然を祝福する短い文で博物誌は締めくくられています。

さて、解説が駆け足になってしまいましたが『博物誌』の内容が膨大で多岐に渡ることだけはお伝え出来たと思います…。

次は博物誌の中から面白いエピソードをいくつか抜粋してお伝えしたいと思います。

参考文献/『プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

プリニウスの『博物誌』とは?

これまで、いろいろ古代ローマの食材や料理について調べてきましたが、その時に良く引用するのがプリニウスの『博物誌』です。

今回はそのプリニウスの『博物誌』とは、どんな本なのかご紹介したいとおもいます。

原題はNaturalis Historiaといい、直訳すると『自然史』となりますが、その内容は自然物だけにとどまらず人間との関わりや歴史や文化など多くの内容を網羅しているため、日本では『博物誌』というタイトルになっています。

西暦77年に完成し、皇帝ウェスパシアヌスの息子で、後の皇帝ティトゥスに捧げられました。

プリニウスは多忙な公務の合間の時間を最大限勉強の時間にあて膨大な書物を読み、常に側らに速記者を連れて抜粋のメモを作らせていました。
その集大成ともいえるのがこの『博物誌』です。

37巻という膨大な文章量を誇り、その内容はこの世の中の全て森羅万象に関する情報を項目別に記述したもので、後の百科事典にたとえられる事もあります。

記載された事柄は2万項目に及び、ローマの著作者146人と外国の著作者327人による文献合計2000点を参照したとされています。

他の著作からの抜粋や事実の記録にとどまらず、面白いこぼれ話が挿入されたり、時に話が大きく脱線したり、プリニウスの感想が述べられたりすることもあります。

文章全体にプリニウスの自然観や人生観が反映され、百科事典というにはあまりにも人間臭い魅力があります。


さて、この博物誌は中世ヨーロッパでは権威ある科学書の一つとして多くの写本が作られました。古いものでは5世紀のものが不完全な状態ではあるものの、発見されています。(一部が『博物誌』の写本だったが羊皮紙を再利用するために表面のテキストを削り、洗い流した後に別の写本に書き換えられたものが発見されています。)

現存するものの多くは9世紀から15世紀頃に作られたものです。

『博物誌』の写本のひとつ。フランスのサン・ヴァンサン修道院で12世紀に作成されたもの
画像:Wikimedia Commonsより

古代ギリシア・ローマ時代の高度な学問は西ローマ帝国の滅亡やキリスト教的価値観の中でヨーロッパ地域では失われ、イスラム世界で保存されました。そしてそれらはルネッサンス期にヨーロッパに再導入された、という話はご存じの方が多いと思います。

しかし、プリニウスの『博物誌』は中世ヨーロッパでも失われることなく写本が作られ、

さらに独自の発展を遂げていきました。

『博物誌』の中の薬学に関する部分を抜粋したものは『Medicia Plinii(邦訳無し、プリニウスの医学)』という書物となり、修道院の診療所で用いられました。

動物の性質に関する部分はキリスト教的価値観と結びつけて動物の生態を説明する『Bestiarum(動物寓意譚)』などの書物に変化しました。

1210年頃イングランドで製作された『アシュモル動物寓意譚』より
「モノセロス(ユニコーン)」と「クマ」 画像:Wikimedia Commonsより

15世紀に活版印刷がヨーロッパ地域でも用いられるようになると、プリニウスの『博物誌』も印刷され、さらに広まっていきます。

『博物誌』の活版印刷本のひとつ。 画像:Wikimedia Commonsより

日本や中国にも伝わってきています。フランドル出身の宣教師で清の康熙帝(こうきてい)に仕えていたフェルビーストという人物の書いた『坤輿外記(こんよがいき)』という書物がありますが、これは『博物誌』からの抜き書きだろうといわれています。日本には江戸時代後期頃伝わってきたとされています。

『坤輿外記』 画像:Wikimedia Commonsより

しかし、時代が進むとプリニウスの『博物誌』は次第に批判されるようになりました。近代科学の発達に伴い、その時代の尺度で古代の科学や思想を批評する事が行われたためです。


もちろん、『博物誌』の内容は現在の我々からみると誤った記述も多く、荒唐無稽な物に思えるかもしれません。

しかし、それだけで古代の書物の価値を判断することはもちろん、大きな間違いです。
プリニウスの大きな功績は古代の情報の膨大なストックを残してくれた事です。
こうして我々が古代ローマの人々の世界観やものの考え方を知ることができるのも『博物誌』が残っているおかげです。

次回の記事では、博物誌の内容と構成を簡単にですがご紹介していきます!