カリグラは古代ローマの三代目皇帝です。
若く美しい皇帝として即位したカリグラですが、次第に狂気に満ちた本性を露わにし、帝国を恐怖に陥れたのでした。カリグラを主人公に1980年に製作された映画『カリギュラ』は刺激が強すぎる故に一部で上映が禁止され「カリギュラ効果」と呼ばれる心理現象の由来ともなりました。
そんなカリグラは何をやらかし、心にはどんな闇を抱えていたのでしょうか。
破滅に向かってひた走るような彼の人生を覗いてみたいとおもいます。
カリグラの生い立ち
カリグラは古代ローマの三代目の皇帝です。西暦12年に生まれ、
本名はガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスといいます。
父ゲルマニクスは軍隊の司令官として家族を連れてゲルマニアに駐留しており、幼いカリグラもそこで育ちました。
その時子供用サイズに特別に作られた軍服と軍靴を身に着けていた様子がとても可愛らしかったため、軍団のマスコットとして兵士たちから愛され、小さなカリガ(軍靴)を意味するカリグラというあだ名で呼ばれるようになりました。
彼は後にこの子供っぽいあだ名を嫌ったとの事ですが、ここではカリグラと呼ぶことにしたいと思います。
母大アグリッピナの祖父、つまりカリグラの曾祖父は初代皇帝のアウグストゥスであり、由緒正しい皇帝一族の血筋をもって生まれました。
兄弟は他に兄が二人と妹が三人、という大家族です。
アウグストゥスは次の皇帝に義理の息子であるティベリウスを指名すると同時に、カリグラの父ゲルマニクスをティベリウスの養子にしました。つまりゲルマニクスは三代目の皇帝になるはずだったのです。
しかしティベリウスの治世の5年目に、突如として父ゲルマニクスは亡くなってしまいます(西暦19年カリグラ7歳)
さらにティベリウスと反目しあっていた母アグリッピナと兄二人は反乱分子として相次いで捕らえられ(西暦29年母・長兄、30年次兄、カリグラ17歳)
幽閉先で亡くなってしまいました。(西暦31年長兄死亡、33年母・次兄死亡、カリグラ19~21歳)
カリグラと妹たちはしばらくの間祖母アントニアの元で過ごし、その後カプリ島に隠棲していたティベリウスの元へと送られました(西暦31年、カリグラ19歳頃)
ローマの市民たちは彼もまた兄弟達のように亡き者にされるのだろうと噂しました。
しかし、予想に反してカリグラはティベリウスの元で6年間を過ごし、遺言によって亡き父に代わって皇帝に指名されたのです。(西暦37年3月、カリグラ24才)
若く美しい皇帝は人々に熱狂的に迎え入れられました。
遺言では、実は皇帝に指名されたのはカリグラひとりではなく、ティベリウスの孫ゲメルスと共同でという条件つきだったのですが、元老院議員たちはこれを無効とし、直ちに一切の権限と決定権をカリグラに与えました。
民衆は都ローマに入るカリグラを大歓声で迎え入れました。
皇帝となったカリグラはまず初めに、流刑先で亡くなった母親と兄の遺骨をローマに持ち帰り、霊廟に収めました。嵐の中船に乗り、自ら流刑先の島に赴いて骨を拾う様子は市民達の同情を買いました。
新しく治世を始めるに当たって、これまでに追放されていた者は全員許され、裁判中の者は全て無罪とされました。密告の類は今後一切受け付けないとして、書類は中央広場で焼き捨てました。
さらにローマ市民全員に即位のお祝儀を配り、税金も免除しました。元老院議員や騎士階級の者には豪華な晩餐会を開きお土産を配りました。
さらに市民の為に剣闘士試合や演劇、戦車競走などの見世物を次から次へと派手に催しました。先代の皇帝ティベリウスはこうしたイベントを好まないタイプの皇帝だったので、娯楽に飢えていたローマ市民たちは毎日がお祭りのような日々に大喜びです。
市民達も元老院もカリグラを称えました。
しかし、カリグラは突如熱病に倒れます。ユダヤ人フィロンの記録によるとそれは治世の8カ月目の事でした。暴飲暴食や乱れた性生活が原因だろうと書いていますが、実際の原因は分かりません。幸いにもカリグラは病の床から立ち直り健康を回復しました。
しかし、病気が原因かどうかは分かりませんが、この頃からカリグラの残虐な本性が露わになって来るのです。
カリグラの大規模な奇行と金策
カリグラに関する同時代の資料はあまり多くありません。
ここで引用する記述の多くはカリグラの時代より100年程後の歴史家、カッシウス・ディオとスエトニウスによるものです。
カリグラは治世の後半は元老院と対立した為、後の歴史家たちに極端に悪く書かれている可能性があるのです。ここでご紹介するエピソードもどこまでが真実か分からないようなものも含まれますがご了承ください。
カリグラは、邪魔になる人間を次々と排除していきました。
まずは共同皇帝に指名されていたティベリウスの孫、ゲメルス。
次に義理の父(最初の妻の父)のユリウス・シラヌスやカプリ島時代から仕えてくれた近衛隊長のマクロ、そして祖母のアントニアらを殺したとも自害に追い込んだともされています。
元老院議員達もカリグラの逆鱗に触れると命を狙われ、危害は市民達にも及びました。
カリグラが熱病に倒れた時に、皇帝の命が助かるのなら自分は死んでも良い、と祈った人物には「約束を果たせ」といって土手から突き落としました。つまり、カリグラは助かったのだから祈った者の命がまだあるのはおかしい、という理屈でした。
カリグラは親族を次々と破滅に追いやりましたが、3人の妹達は溺愛し全員と近心相姦の関係にあったと噂されています(誤解であるとする説もあります)。
妹たちの中でもとくにドルシラという妹を溺愛しました。彼女が病気で亡くなってしまった時は国を挙げて壮大な葬儀が行われ、ドルシラの神格化を命じます。
喪中のあいだ人々は家族と談笑すると死刑になりました。
カリグラは4回結婚しています。
最初の妻とは皇帝に即位する前に結婚しましたが不幸なことにお産で亡くなってしまいました。
2回目と3回目の結婚は、人妻を夫と別れさせて自分の妻にしたものの、すぐに飽きて離婚しています。
4回目の結婚相手はカエソニアという女性で、やはり人妻でした。贅沢で頽廃的でスキャンダラスな噂のある女性でしたが、そこがカリグラと気が合ったらしく娘が一人産まれました。この娘は結婚してすぐに生まれたため、計算が合わないのですが、カリグラは娘は神々の力で産まれたのだと言っていたそうです。
もちろん結婚しても乱れた性生活は続きました。饗宴の最中に気に入った人妻がいると別室に連れ込んだといわれています。
カリグラは自らの権力を示すために壮大な見世物を計画しました。
湾を隔てた二つの街、プテオリ(現ポッツォーリ)とバイアエ(現バイア)の間に帝国中の船を並べて大きな船橋を作りました。船の上には土を盛ってアッピア街道のように仕上げ、その上を二日間かけて盛大なパレードを開催しました。
カリグラは得意満面だったようですが、海上輸送が滞り食糧不足に陥ったともいわれています。
ローマから近いネミ湖という湖に70mもある大型船を二隻も建造させました。船尾に宝石をちりばめ、内部には広場や食堂や大浴場があったそうです。この船は実在し、1928年に発掘されましたが残念なことに戦争で焼失してしまいました。
現在のサン・ピエトロ大聖堂の辺りには戦車競走のための巨大な競馬場を建設しました。長さ540m幅100mもあったこの建造物は2万人もの観客を収容できたといいます。さらにそこへエジプトから巨大なオベリスク(石塔の記念碑)を持ってこさせました。
オベリスクは現在でも残っています。
カリグラは戦車競走をとても好み、お気に入りの馬に大理石の像と象牙の飼い葉桶、紫に染めた毛布に宝石の首輪と奴隷を与えました。しまいにはこのを執政官の地位に就けようとしたと伝わっていますが、これはおそらく冗談だったのでしょう。
市民達を楽しませるための剣闘士試合はいつも派手に催され、剣闘士同士が戦うだけではなくアフリカから連れてきた猛獣を使うこともありました。
ある時、猛獣の餌に高価な家畜が使われている事を知ったカリグラは、家畜の代わりに人間を餌にすることを思いつき、囚人を一列に並ばせました。そしてそれぞれの罪や判決文に一切目を通すことなく「あの禿からこの禿までを連れていけ」と命令したそうです。
カリグラは皇帝という立場に飽き足らず、絶対的な名誉を求め神になろうとしました。
豪華な衣装に黄金の顎髭をつけ、神々の象徴である稲妻や三叉の鉾などを身に着けました。時には愛の女神ウェヌスの扮装で人々を驚かせました。
邸宅の一部を中央広場まで広げてそこにあった神殿と繋げ、神々と一緒に自分も崇拝させました。さらにギリシアの神々の像をローマに集め、頭部を自分の顔に作り変えるよう命じたそうです。
ある時カリグラは処刑する予定であったシリアの提督に「自分は今、月との会話を楽しんでいるのだがお前たちには女神が見えるか」と尋ねました。シリアの提督は
「神の姿は神にしか見えません」と答えてカリグラに気に入られたため、処刑を免れたどころか重用されるようになったといいます。
自分専用の神殿も建てさせます。そこに等身大で黄金のカリグラ像を設置し、毎日自分と同じ服を着せさせました。
さて、このような壮大で贅沢な振る舞いばかりしているとお金が無くなるのは当然のことです。カリグラはなんと、先代のティベリウスが残した国家の為の莫大な金額を一年も経たない間に使い果たしたのです。
困ったカリグラは人々から財産を巻き上げるようになりました。
食べ物などはもちろん輸送や売春や裁判などあらゆる物事にに税金をかけました。
自分や先祖の家財道具をオークションにかけ、法外な値段で売りつけました。代金を支払えずに自殺に追い込まれた人もいました。
裕福な人々は陰謀を企てているなどの理由で財産を没収されました。
遺産相続の際は家族などとともに、カリグラも相続人に指名するように定めました。
しかも、人々がこれに従うと「相続人に指名しておきながら生き続けるとは何事か」と、早く死ねと言わんばかりに毒入りのご馳走を贈ったといいます。
娘が産まれた時は養育費のための寄付を受け付けてやろうと宣言し、新年にはお年玉をうけつけるであろうと宣言して邸宅の玄関先を巡ったといいます。
これほどまでに国家の財政が逼迫している状態にありながら、カリグラは軍事的な成功をもとめて軍事作戦を始めるのでした。
カリグラの苦悩と心の闇
24歳で即位し、それまでカプリ島にいたカリグラには政治的にも軍事的にもキャリアを積む機会がありませんでした。
その為か、カリグラは軍事的な成功を欲しがったようです。
ある時、森へ遊びに行ったカリグラは突如ゲルマニアに遠征しようと思いつきます。用もないのに軍隊を各地から呼び寄せ、遅れた者を𠮟責しました。
又ある時はゲルマン人の捕虜をあらかじめ森に隠れさせておき、騎兵隊とともに彼らを捕まえると松明を灯して意気揚々と連れ帰ったといいます。
カリグラが次に目をつけたのは海を隔てて向こう側のブリタニアでした。攻めてくる敵もいないのに、いかにも戦闘態勢というように北海の沿岸に隊列を敷き、投石機(カタパルト)や弩砲(バリスタ)を配置しました。
そして兵士達に「貝殻を拾って兜や懐を一杯にせよ、これは北海の分捕り品だ」と言い放ったといいます。
その後、戦勝記念碑として高い灯台を建て、元老院あてに凱旋式の準備を求めました。
こうした茶番とも思える行動をどう解釈するかは様々に議論されています。
しかし、カリグラが成功体験を渇望したことは想像にかたくありません。
カリグラは自分の治世について「今は目立つような国家の不幸は全くない。私の世の中の繁栄のおかげで忘却の危機にさらされている」と言い、軍隊の壊滅や火災、大地の亀裂などの国家の不幸を願っていたといいます。
何か活躍の場と功績が欲しかったのでしょう。
カリグラは嫉妬心がきわめて強く、攻撃的でした。人々の功績を称える像は叩き壊し、高貴な家柄の者は家紋を奪い、美しい髪をもつ者は髪を刈られました。他者の優れた性質に敵対心をむき出しにし、美点があるとそこを傷つけたといいます。
歴史家スエトニウスはカリグラの不安定な精神についても描写しています。
幼少の頃から癲癇と思われる症状に悩まされ、時に失神して起き上がることも精神を保つこともできなくなったといいます。
普段は自らを神と称していたカリグラですが、雷鳴や火山の鳴動など神々の存在を思わせるような自然現象には恐れおののき、両手で頭を覆って寝台の下に隠れました。
夜は不眠症に悩まされ三時間以上眠ることができず、いつも苛立っていました。少しでも眠ると悪夢にうなされるので夜の間、横になっていられず長い柱廊をさまよい歩き、日の出を待ち望んだそうです。
そして朝がくると不安な精神を打ち消すかのように過度に攻撃的になるのでした。
しかし、地獄のようなカリグラの治世には誰かが終止符を打たねばなりません。
紀元41年のある日の昼頃、
妻と娘と共に劇場の通路を歩いていたカリグラに近衞隊副官のカエレアという男が背後から切りつけました。
地面に倒れつつ「まだ生きているぞ」と言い放つカリグラの周りを近衞隊が取り囲み、「反復せよ!」の合図とともに一斉に刀で突き刺しました。
全身に30箇所以上の傷を受け、カリグラは絶命しました。
妻カエソニアは剣で突かれ、娘は壁に叩きつけられて殺されました。
カリグラ29歳、3年と2か月の治世でした。
これがローマ帝国で初めて近衞軍が皇帝を暗殺した事例です。近衞兵達はカリグラの叔父クラウディウスを皇帝に擁立し、元老院が認めました。この後のローマ帝国ではしばしば近衞軍が皇帝を暗殺したり擁立したりする力をもつようになります。
カリグラの饗宴
ここからはカリグラの饗宴に関するエピソードをお話ししましょう。
派手な事を好んだカリグラは自身の饗宴にも奇妙奇天烈な食べ物や宴会を工夫したと記録されています。会食者の前には黄金製のパンや料理が提供されたそうです。
また、非常に高価な真珠を酢に溶かして飲んだともいわれています。クレオパトラにも同じような逸話があり、そちらの方が有名ですね。
カリグラが自らを神として祀らせた神殿には珍しくて高価な食材が運ばれました。
フラミンゴ、クジャク、黒雷鳥、雉、青肉垂と赤肉垂のホロホロ鳥などです。これらが毎日種類を変えて毎日犠牲として捧げられたそうです。
気前のよいエピソードも残っています。市民の為に様々なイベントを開き、劇場内ではパンや様々な食べ物を詰め合わせた籠を一人一人に配りました。
このような会食の席で一人のローマ騎士が、カリグラの真向かいで人一倍陽気にガツガツ食べている様子を見て、カリグラは自分の分もその騎士に分けて与えたそうです。
しかし、気前が良くてもカリグラの饗宴には絶対に参加したくありません。
真偽の程はともかく、カリグラは饗宴の最中に拷問を見るのを好んだなどの残虐エピソードは枚挙にいとまがありません。ある時は息子の処刑を目の前で父親に見せておきながら、その直後に饗宴に招待し、楽しく話をするようにと強要しました。
またある時には豪華な饗宴の席でカリグラが突然大声をあげて笑い始めたため、側にいた二人の執政官がその訳を尋ねました。するとカリグラは「私がちょっと頷くだけでたちまちそなたら二人の首が飛ぶと思うと面白いのだ」と答えたそうです。
また饗宴中も性には奔放で、気に入った人妻がいると別室に連れ込んだそうです。そしてしばらくすると戻ってきて夫の前でその女性の身体の特徴や良いところ、悪いところを赤裸々に話しはじめたといいます。
これらのエピソードはすべてが真実ではないのでしょうが、このようなカリグラの贅沢で残虐で性に奔放な饗宴の記述は人々に強い印象を残したようです。
カリグラやその他の権力者、それに数々の美食家のエピソードなどがいろいろ合わさった結果、古代ローマの饗宴といえば堕落して頽廃的なステレオタイプのイメージが後に作り出されてしまいました。
参考文献/参考HP
『年代記』
タキトゥス著 国原吉之助訳 岩波文庫
『ガイウスへの使節』
フィロン著 秦 剛平訳 京都大学学術出版会
A Digital Library of Classical Antiquity
古代古典のデジタル図書館 レキサンドリア
https://lexundria.com/ より
『ローマ史』59巻 カッシウス・ディオ
『ユダヤ古代史』19巻 フラウィウス・ヨセフス