にゃこめしの食材博物記

YouTubeチャンネル「古代ローマ食堂へようこそ」の中の人のブログ。古代ローマの食文化についての記事を中心に、様々な歴史や食文化について調べて書いているブログです。

プリニウスの博物誌に登場する怪物達

古代ローマの百科事典ともいえる、プリニウスの『博物誌』。
全37巻に及ぶ膨大な記述は、地理や自然科学、薬学など多岐にわたります。
1世紀の古代ローマで書かれたものなので、すべてが科学的に正しい内容ではなく、現代のわれわれから見ると、不思議だったり、驚くような記述が含まれている部分もあります。今回はそういった面白い記述の部分に関して紹介していきたいと思います。
プリニウスの人物像や『博物誌』のたどった歴史などは前回までの記事に紹介しておりますので、興味のある方はそちらもお読みいただければと思います。

さて、この二冊は日本でプリニウスを紹介した中で最も一般に普及したといえる本です。
内容は『博物誌』から変な生き物など、奇抜な記述の部分だけを抜き出して紹介したエッセイです。

『私のプリニウス』 『プリニウスと怪物たち』 澁澤竜彦 河出文庫

実際にはこの本で紹介される怪物や幻獣などが登場するのは『博物誌』の膨大な内容のうちごく一部なのですが、著者の澁澤さんの本は特定の世代にかなり人気があったらしく、プリニウスの博物誌といえば、妖怪大百科のようなイメージが広がってしまいました。

ただ、そうした怪物に魅力を感じるのは昔の人も同じだったらしく、写本や物語などに何度も取り上げられ、後の創作物に影響を与えた部分も少なからずあるようです。
それに、やはり面白いので『博物誌』の怪物達について簡単に紹介したいと思います

モノコリ(又の名をスキヤポデス)

“クテシアス(※)はモノコリといって脚が一本しかなく跳躍しながら驚くべき速力で動く人々の種類について述べている。またその種族は「傘足種族(スキヤポデス)」と呼ばれるが、それは暑い季節には、仰向けに寝て、その足の陰で身を守るからだと。さらに西方には首がなくて目が肩についている連中もいるという”

このような荒唐無稽な話をどこまでプリニウスが信じていたかは研究者たちを悩ませる部分でもあります。
この部分は紀元前5世紀の古代ギリシャの医師で歴史家クテシアスの『インド史』という書物からの抜き書きです。
1世紀のローマ人にとって、インドはまだまだ謎とロマンに満ちた辺境の地だったのかもしれませんね。

ミュンスター『コスモグラフィア』の挿絵より 1552年に印刷されたもの
左端がモノコリ、画像:Wikimedia Commonsより

不死鳥

プリニウスはこれは多分架空な話と思うが、と前置きをしてから不死鳥について書いています。

“アラビアには不死鳥がいるが、全世界にたった一羽しかいないのでまず見られないという。(中略)それが歳をとりかかると桂皮と乳香の小枝で巣をつくり、それに香料を詰め、死ぬまでそこに横たわっている。すると骨と髄からウジが生まれ、それが成長してひな鳥になる。そして前の鳥の葬儀を行い、太陽神の祭壇に置く”

現在メジャーな炎にとびこんで若返る、火の鳥のイメージとはずいぶん違いますね。

『動物寓意譚』13世紀イギリス 画像:Wikimedia Commonsより

サラマンドラ

原文ではSalamandraですが、翻訳によってはサンショウウオとなっています。

サラマンドラというのはトカゲのような形をし、斑点に覆われた動物だが、大雨の時しか姿を見せず、晴天の時は消え失せる。非常に冷たいので、氷がそうであるように、火に触れると火は消えてしまう。口からは乳のようなよだれを出し、触れるとその部分の毛が抜け、変色し、破れて湿疹になる。”

この記述はアリストテレスの記述をもとにしたのではないかと言われています。炎の中に住んだり、火を吐いたりするサラマンダーのイメージは後の時代に付け加えられたもののようです。

ディオスコリデス『薬物誌』の挿絵にみられるサラマンドラ
ウィーンの写本、6世紀頃 画像:Wikimedia Commonsより

一角獣

一般的な一角獣のイメージといえば白馬の額にイッカクの牙をつけたような見た目でしょうか。

タペストリー「貴婦人と一角獣」フランス15世紀末頃 画像:Wikimedia Commonsより
この頃には現在我々が想像する姿の一角獣に。ただし蹄は割れているので実は偶蹄目かも?

しかし、古代のユニコーンの姿は全く違ったようです。

“インドで最も獰猛な動物は一角獣で、これは身体の他のところはウマに似ているが、頭は雄鹿に、足はゾウに、尾はイノシシに似ていて、深い声で吠える。そして額の中央から突出している2キュービット(約80cm)もある一本の黒い角をもっている。この獣を捕獲するのは不可能であるという。”

これは…サイではないでしょうか…?


このように『博物誌』では、はるか遠くの民族や動物などは幻想的な記述が混ざっています。情報の伝達手段も限られたこの時代の事を思うと無理もありません。

しかし、かなり身近な存在なのにプリニウスが最も恐れたのはこの生物ではないか、と思うような記述を見つけました。

その生物とは…女性です。

“女性の月々の下りもの(経血)に触れると、新しいワインは酸化し、作物は成熟しない。接穂は枯死し、田圃の種子は干上がる。木々の果実は落ちる。明るい鏡はそれを映しただけで曇り、鋼鉄の切り口も象牙の艶も鈍る。ミツバチの巣も死ぬ。それを舐めると犬は発狂し、毒が染みこんで、それに咬まれると治らない。”

生理の女性が集まったら国を滅ぼせそうですね。

プリニウスにとって女性は異国の怪物たちより不可解で恐ろしいものだったのかもしれません。

 

参考文献/『プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

参考文献ではないが紹介した本/
『私のプリニウス』『プリニウスと怪物たち』澁澤竜彦 河出文庫

 

プリニウスの『博物誌』その構成と内容

前回の記事では『博物誌』が1世紀の古代ローマから現代までどのように伝わって来たかを解説しました。
今回は『博物誌』に書かれている内容について、すべてはお伝え出来ませんが各巻の概要だけご紹介していきたいと思います。

私の手元にある本では全37巻が3冊にまとめられている。

『博物誌』は全37巻で構成されています。

1巻は目次です。2巻以降に書かれている内容と参考文献、その作家を列挙してあります。参考文献の中には歴史の中で失われてしまった著作も多く含まれており今日でも貴重な資料となっています。

2巻は宇宙や気象や地学に関する事柄が書かれています。
宇宙が球体であること、元素が4つであること、地球が球体であること、変わった気象現象の記録、地震の原因が星なのか風なのかという考察、などが書かれています。
日蝕や月蝕について「太陽はそれを横切る月の通過により隠され、月は地球の遮断によって隠される」と科学的に正確な記述が書かれている部分もあり、驚かされます。

3巻から6巻は地理に関する事柄が書かれています。
広大なローマ帝国の属州の地理的特徴や都市、気候、民族などがとても精緻で詳細に述べられています。諸外国についても書かれており、インドや中国、アフリカ内陸部まで記述は及びますが、遠くの地域になるほど不正確で疑わしいものになっていきます。しまいには上唇と舌をもたない種族やライオンやヒョウが主食の「野獣食人」、犬の顔をもった種族などが登場します。

7巻人間についてです。
カエサルの精神力やポンペイウスの業績などと並んで異常な視力の持ち主、水分を摂らずに生きた人、もっとも高値がつけられた奴隷など、様々なジャンルのすごい人たちに関する記録が列挙され、さながらテレビ番組のようです。
さらには首がなく肩に目がついた種族や半身半獣の種族などに関する記述もあります。人間の妊娠、出産について書かれている部分もあります。

8巻から11巻までは生き物についてです。
8巻は陸生動物についてです。馬やヒツジなど身近な家畜の他、ゾウについてもかなり詳しく記述されています。
9巻は水生生物です。イルカについてかなりの熱量で語られているほか、高級で贅沢な食材としての魚、真珠貝や染料のムラサキ貝等についても興味深いです。
10巻は鳥類です。様々な鳥の見た目や性質が述べられています。又、鶏やガチョウの肥育方法などにも触れられています。
11巻の前半は昆虫についてです。かなりの項目がミツバチに関する情報で占められています。後半は目、歯、心臓や胃、毛髪など人間や動物の身体のパーツについての記述です。

12巻から19巻は植物と植物の栽培や利用についてです。
12,13巻は外国の珍しい木やそこからとれる香料、ゴム、パピルスなどについて書かれ、
14巻では葡萄とワイン
15巻では果樹の栽培や利用について、
16巻は森林の樹木の利用について書かれています。
17巻は樹木栽培について、土づくりに接ぎ木や剪定とかなり専門的な内容です。
18巻穀物についてです。小麦や大麦の他雑穀や豆類について季節ごとの農作業や貯蔵、利用のしかたなど、かなり具体的かつ詳しい農業書、といった内容です。
19巻は冒頭で亜麻などの繊維植物について述べられ、その他大部分は菜園と栽培される植物についての記述です。カブ、レタス、タマネギなどなじみ深い野菜が登場します

20巻から27巻は植物とその薬効についてです。
膨大な植物の薬効が列挙され、プリニウスがもっとも力を注いだ部分ではないかといわれています。迷信や伝承によるものも多いですが、当時の医薬の知識の全てを詰め込んだような内容です。一部はその後抜粋されて「プリニウス医学」として中世ヨーロッパに普及しました。
20巻は菜園植物
21巻は花
22巻は草からとれる薬剤について
23巻は果樹や栽培された樹木からとれる薬剤について、
24巻は森林の樹木からとれる薬剤についてです。
25巻では冒頭で植物利用の歴史や伝説とその植物の薬効が語られます。
25巻の後半と26巻は目の薬に用いる植物、鼻の薬に用いる植物、と症状別に植物と薬効、利用方法が語られます。他にもお腹、皮膚、脱臼、腫れ物、熱病、痛風に効く薬など…一番実用性が高そうな部分ですね。
27巻はその他植物の薬効です。

28巻から30巻は主に陸生生物から得られる薬効について書かれています。
動物別にその薬効が書かれたり、症状別に動物が列挙されたり、途中で突然医学の起源について書かれたり、魔術の起源や魔術を行うドルイド僧やマギ僧への批判などが書かれたりします。
内容の構成はめちゃくちゃですが面白い部分でもあります。

31巻は水についてです。海水や塩、泉の水、温泉の薬効について述べられています。古代ローマの魚醤であるガルムやアレックについての記述もあります。

32巻は水生生物の薬効についてです。
症状別に薬効のある水生生物が挙げられている他、身体は小さいのに大きな船を動けなくしてしまう謎の魚コバンザメ、見ただけで流産し触れると数日後に死んでしまう不思議な生物ウミウサギの話なども書かれています。

33巻と34巻は金属や合金についてです。
指輪や貨幣、装飾品や彫刻についても語られます。
35巻は絵画と画家や絵具について、
36巻は大理石と建造物について、
37巻は宝石についてです。

最後に母なる自然を祝福する短い文で博物誌は締めくくられています。

さて、解説が駆け足になってしまいましたが『博物誌』の内容が膨大で多岐に渡ることだけはお伝え出来たと思います…。

次は博物誌の中から面白いエピソードをいくつか抜粋してお伝えしたいと思います。

参考文献/『プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

プリニウスの『博物誌』とは?

これまで、いろいろ古代ローマの食材や料理について調べてきましたが、その時に良く引用するのがプリニウスの『博物誌』です。

今回はそのプリニウスの『博物誌』とは、どんな本なのかご紹介したいとおもいます。

原題はNaturalis Historiaといい、直訳すると『自然史』となりますが、その内容は自然物だけにとどまらず人間との関わりや歴史や文化など多くの内容を網羅しているため、日本では『博物誌』というタイトルになっています。

西暦77年に完成し、皇帝ウェスパシアヌスの息子で、後の皇帝ティトゥスに捧げられました。

プリニウスは多忙な公務の合間の時間を最大限勉強の時間にあて膨大な書物を読み、常に側らに速記者を連れて抜粋のメモを作らせていました。
その集大成ともいえるのがこの『博物誌』です。

37巻という膨大な文章量を誇り、その内容はこの世の中の全て森羅万象に関する情報を項目別に記述したもので、後の百科事典にたとえられる事もあります。

記載された事柄は2万項目に及び、ローマの著作者146人と外国の著作者327人による文献合計2000点を参照したとされています。

他の著作からの抜粋や事実の記録にとどまらず、面白いこぼれ話が挿入されたり、時に話が大きく脱線したり、プリニウスの感想が述べられたりすることもあります。

文章全体にプリニウスの自然観や人生観が反映され、百科事典というにはあまりにも人間臭い魅力があります。


さて、この博物誌は中世ヨーロッパでは権威ある科学書の一つとして多くの写本が作られました。古いものでは5世紀のものが不完全な状態ではあるものの、発見されています。(一部が『博物誌』の写本だったが羊皮紙を再利用するために表面のテキストを削り、洗い流した後に別の写本に書き換えられたものが発見されています。)

現存するものの多くは9世紀から15世紀頃に作られたものです。

『博物誌』の写本のひとつ。フランスのサン・ヴァンサン修道院で12世紀に作成されたもの
画像:Wikimedia Commonsより

古代ギリシア・ローマ時代の高度な学問は西ローマ帝国の滅亡やキリスト教的価値観の中でヨーロッパ地域では失われ、イスラム世界で保存されました。そしてそれらはルネッサンス期にヨーロッパに再導入された、という話はご存じの方が多いと思います。

しかし、プリニウスの『博物誌』は中世ヨーロッパでも失われることなく写本が作られ、

さらに独自の発展を遂げていきました。

『博物誌』の中の薬学に関する部分を抜粋したものは『Medicia Plinii(邦訳無し、プリニウスの医学)』という書物となり、修道院の診療所で用いられました。

動物の性質に関する部分はキリスト教的価値観と結びつけて動物の生態を説明する『Bestiarum(動物寓意譚)』などの書物に変化しました。

1210年頃イングランドで製作された『アシュモル動物寓意譚』より
「モノセロス(ユニコーン)」と「クマ」 画像:Wikimedia Commonsより

15世紀に活版印刷がヨーロッパ地域でも用いられるようになると、プリニウスの『博物誌』も印刷され、さらに広まっていきます。

『博物誌』の活版印刷本のひとつ。 画像:Wikimedia Commonsより

日本や中国にも伝わってきています。フランドル出身の宣教師で清の康熙帝(こうきてい)に仕えていたフェルビーストという人物の書いた『坤輿外記(こんよがいき)』という書物がありますが、これは『博物誌』からの抜き書きだろうといわれています。日本には江戸時代後期頃伝わってきたとされています。

『坤輿外記』 画像:Wikimedia Commonsより

しかし、時代が進むとプリニウスの『博物誌』は次第に批判されるようになりました。近代科学の発達に伴い、その時代の尺度で古代の科学や思想を批評する事が行われたためです。


もちろん、『博物誌』の内容は現在の我々からみると誤った記述も多く、荒唐無稽な物に思えるかもしれません。

しかし、それだけで古代の書物の価値を判断することはもちろん、大きな間違いです。
プリニウスの大きな功績は古代の情報の膨大なストックを残してくれた事です。
こうして我々が古代ローマの人々の世界観やものの考え方を知ることができるのも『博物誌』が残っているおかげです。

次回の記事では、博物誌の内容と構成を簡単にですがご紹介していきます!

古代ローマのヒョウタン料理を再現2

前回にの記事に引き続き、今回も古代ローマヒョウタン料理を再現してみたいと思います。
古代ローマではヒョウタンの仲間はククルビタ(cucurbita)と呼ばれ、若い実は食用に、成熟した実の外皮はお酒の容器などに利用されてきました。
残念ながら食用ヒョウタンが手に入りませんので3種類のウリ科の野菜を使います。

古代ローマから現代に伝わるレシピ集、『アピキウスの料理書』にはクミンソースで仕上げるヒョウタン料理のレシピが記載されています。
古代のレシピゆえ、材料の分量も詳しい調理手順も書かれていません。料理人の解釈により出来上がる料理が変わってきます。
このブログでは私が作るとどうなったのか、という視点でお読みいただければと思います。

『アピーキウス古代ローマの料理書』三省堂 より

クミンソースのレシピ『アピーキウス古代ローマの料理書』三省堂 より

材料

  • ズッキーニ、冬瓜、白瓜など 適量
  • コショウ 少々
  • セロリの葉(ラヴィッジの代用) 10g
  • パセリ 10g
  • 乾燥ミント 少々(1g程度)
  • クミン 5g(大さじ1)
  • 蜂蜜 大さじ2
  • ワインビネガー 50㏄
  • お好みの魚醤(リクァーメンの代用)50㏄

参考文献は材料の記録だけで調理方法が示されていませんので、あとの工程はいつものパターンだと仮定してソースを作ります。

  1. 蜂蜜以外の材料をミキサーに入れすり潰したら鍋に移します。
  2. 蜂蜜を加え、よく混ぜながらひと煮立ちさせたらソースの完成です。

  3. 冬瓜は適当な大きさに切り分けて皮を剥き、8mmくらいの厚さにスライスします。白瓜も皮を剥き8mmくらいの厚さにスライスし、真ん中の種とワタをスプーンでくりぬいて取り除きます。ズッキーニは皮を剥く必要はないので、洗って同じ厚さに切っておきます。

  4. 鍋にお湯を沸かし、ウリ科の野菜達をサッと湯がきます。
    この工程は必要かどうかわかりません。文献の料理の名前は「水煮して油で焼いたヒョウタン」なのに茹でるとは書いてありません。もしかしたら昔のヒョウタンはアク抜きが必要だったのかもしれません。
  5. 鍋に3を並べ、オリーブオイルを回しかけたら先ほどのクミンソースを注ぎ、火にかけます。火が通ったら完成です。お皿に盛り付けましょう。

さあ、試食してみましょう!

ハーブの青くフレッシュな香りとクミンの食欲をそそるスパイシーな香りが口いっぱいに広がります。
ビネガーの酸味と魚醤の旨味がハーブとスパイスのはじける様な香りをうまくまとめ上げています。
オリーブオイルを吸ってとろりとした甘みを増した野菜に強い味のソースがよく合い、とても満足感のある一品でした。

このクミンソースは肉や魚にもよく合います。

せっかくなので前回の記事で作った料理と一緒に並べてみました。

どちらもそれぞれ、美味しかったです。

夏もそろそろ終わり。
来年こそ食用ヒョウタンを手に入れて、より古代ローマ時代の料理に近いものを作りたいものです。

参考文献

『アピーキウス・古代ローマの料理書』
ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂

古代ローマのヒョウタン料理を再現

古代ローマではククルビタ(cucurbita)と呼ばれていた作物がありました。

それは若い実は食用にし、成熟した実は中の種を取り除き硬い外皮をお酒の容器や小物入れなどに使います。
何の作物か分かりましたか?

そう、ヒョウタンの事です。

古代ローマ博物学プリニウスは『博物誌』でヒョウタンについてこのように記述しています。

“(前略)ヒョウタンは近頃浴室で水差しの代わりに用いられるようになった。
それは酒を貯蔵する瓶として長いこと使用されてきた。

ヒョウタンの皮は青いうちは薄いが、それでも食用に供するときには掻きとられる

(中略)この植物の頭に最も近い種子は長いヒョウタンを生ずる。そしてその尻に近い種子も同様だ。中央の種子は丸いヒョウタンがなる。そして縁にある種子は太くて短いヒョウタンがなる(以下略)”

『博物誌』の内容の正確さはともかくとして、古代ローマでは長いもの、丸いもの、といろいろな形のヒョウタンが利用されてきたのでしょう。

イタリアでは食用ヒョウタンが今でも栽培されており、ズッキーニと同じような調理法で食べるそうです。
(カボチャもヒョウタンもズッカと呼ばれ、ヒョウタンの方にはzocca da vinoやzucca bottigliaなどの種類がある)

夏の間に食用ヒョウタンを手に入れたかったのですが、残念ながら手に入りませんでしたので代わりにウリ科の野菜を3種類用意して、古来ローマのヒョウタン料理を再現してみたいと思います。

白瓜、冬瓜、そしてアメリカ大陸原産だけどズッキーニも用意しました。

左からズッキーニ、冬瓜、白瓜

古代ローマのレシピ集である『アピキウスの料理書』にはヒョウタン料理がいくつか伝わっています。今回はヒョウタンのソテーにシンプルなソースをかけた料理を作ってみたいと思います。

『アピーキウス古代ローマの料理書』三省堂より

なお、アピキウスの料理書には材料の分量も詳しい調理手順も書かれていません。料理人によって再現される料理が変わってきます。このブログは私が作るとどうなったのか、という視点でお読みいただければと思います。

材料(二人前)

  • ズッキーニ、冬瓜、白瓜など 適量
  • オリーブオイル 大さじ3
  • 赤ワイン(できれば甘口のもの)大さじ1
  • 魚醤 大さじ1(塩分量は商品によって違うので味見しつつ調節して下さい)

こちらのシンプルなレシピの方から作っていきましょう。

  1. まずは下ごしらえです。
    冬瓜は適当な大きさに切り分けて皮を剥き、8㎜くらいの厚さにスライスします。
    白瓜も皮を剥き8㎜くらいの厚さにスライスし、真ん中の種とワタをスプーンくりぬいて取り除きます。
    ズッキーニは皮を剥く必要はないので洗って同じ厚さに切っておきます。

  2. 葡萄酒入りガルムのかわりに甘口の赤ワインとお好みの魚醤を混ぜて馴染ませておきます。
  3. 次にフライパンにオリーブオイルを注ぎ、1.を並べて焼いていきます。
    中火で7~8分、途中でひっくり返し、両面焼き色がついたら焼き上がりです。
  4. お皿に並べて2.のソースをかけて、胡椒をふったら完成です。

とてもシンプルな料理ですね。

さあ、試食してみましょう!

ソースは魚醤の旨味とワインの甘み酸味が程よく、旨味がすごく強いポン酢のようです。淡白な味のウリ科野菜の味ととてもよく合います。

油をたっぷり吸った冬瓜はナスのような旨味があり、予想以上の美味しさでした。
白瓜は火を通してもシャクシャクして面白い食感、
そしてズッキーニはさすが、安定のクオリティーで美味しいです。

なんだか和食を思わせるような素材の美味しさを活かした一皿でした。

今回は冬瓜、白瓜、ズッキーニと3種類の野菜で代用して作りましたが、
もしもイタリアでヒョウタンの料理を食べたことのある人がいらっしゃいましたらコメントでどんな味だったか教えて下さい。

次回の記事ではクミンソース仕立てのスパイシーなしヒョウタン料理をつくります。
もちろん、文献を基に再現していますので、ぜひご覧ください!

参考文献/

【参考文献】
『アピーキウス・古代ローマの料理書』
ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂

プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣

博物学者プリニウス(2)面白すぎる生活

前回の記事では古代ローマ博物学プリニウスの生涯を紹介しました。

プリニウス(画像:wikipediaより)

今回はプリニウスの人物像と、その個性的な生活ぶりがわかるエピソードを紹介していきます。

今日では博物学者として知られるプリニウスですが、彼は専業の学者ではなく、忙しい政務や軍務の側ら大量の書物を読み、執筆しました。
一体どうやって時間を捻出していたのか気になりますね。

甥の小プリニウスの書簡にはプリニウスの驚くべき生活の様子が記録されています。

プリニウスは睡眠時間が短くて済む人でした。

夜の長い冬の間は、研究の時間を長くとるために真夜中に起きて勉強を始めました。
遅くとも2時半頃、早い日には夜の23時過ぎに起きたそうです。
そこから夜通し研究の時間にあて、そして夜明け前に皇帝ウェスパシアヌスを訪問し、昼間は職務につきました。
睡眠不足が気になるところですが、プリニウスは仕事中にたびたび居眠りをしては、またすぐさめて活動していたそうです。

昼間の時間が長い夏の間は少しでも仕事の暇があれば研究にあてました。
プリニウスは常に自分の側に本と書き板をもった速記者をつれており、本を読ませつつ覚え書きや抜粋をつくったそうです。
彼は「何もとりえのないほど悪い本などはない」と言い様々な本から情報を抜き出し、整理し、編集しました。

昼頃になると冷たい風呂に入り、少し何かを食べ、短い睡眠をとりました。
そして昼寝から目覚めるとまるで新しい一日が始まったかのように仕事を始め、夕食まで続けたそうです。

もちろん、プリニウスは食事の時間も無駄にしません。
日中の食事は軽く、簡単に済ませました。
夕食のときは朗読者に本を読ませ、速記者に覚え書きを作らせつつ食事をとります。

ある時、プリニウスの友人の一人が朗読者に間違って発音したところまで戻ってもう一度読むようにと言ったことがありました。その時のことを小プリニウスはこう記録しています。

“「わからなかったのか」と伯父はいいました。
その友達はわかっていたことを認めました。
伯父は「それならなぜ、もとへ戻らせるのだ。君が邪魔して、少なくとも十行は損をした」と言いました。これほどまでに時間の節約に心をくだいたのです。”

そんなプリニウスですから、夕食の時も長居することなく食事が終わるとさっさと席を立ったようです。

“夏にはまだ明るいうちに食事から立ち上がり、冬には夜になり始めるとすぐ立ち上がりました。”

もちろん夕食後は自身の研究の仕事にあてる時間です。

そんなプリニウスが仕事を中断してリラックスする時間は入浴中のときだけでした。
ただし、

“この入浴というのは実際に湯につかっている時の事を意味します。
というのは体をこすられたり、乾かされているときは、本を読ませたり、書き取りをさせたりしたからです”

だそうです。風呂場でのドタバタが目に浮かぶようですね。

さらにプリニウスは移動の時間も無駄にしませんでした。
移動の際は椅子に座ったまま運ばれるのが常だったそうです。
冬にはどんなひどい天候でも勉強する時間を失わないようにするために両手を長い袖で覆いました。

“私(小プリニウス)はぶらぶら歩いていてどんなに叱られたかを思い出します。彼によればそのように時間を浪費してはいけなかったのです、というのは、彼は、勉強に費やされた時間でなければすべて時間の浪費だと思ったのです。彼が、これらすべての本を完成できたのは、この勤勉さゆえでした。”

プリニウスは驚くべき体力と精神力をもって執筆していたことがよく分かります。
この上なく勤勉で情熱的な研究者だと尊敬の念を覚えるとともに、愛すべき変人と感じてしまうのは、私だけではないはずですよね…?

さて、このブログのテーマである、食べ物の話に移りましょう。
プリニウスが何を食べたかという記録は残念ながら残されておりません。

しかし、甥の小プリニウスの為の饗宴のお品書きは現在まで残っているのです。
それは次のようなものです。

前菜…サラダ、カタツムリ三個、固ゆで卵二個

主菜…粥、焼きズッキーニ※のソース添え、野生の花の球根の酢漬け

デザート…ムルスム(蜜酒)アイス、新鮮な果実

古き良きローマの伝統に基づいた、何とも素朴で質素な献立です。

今回の記事は、ほとんど小プリニウスの記録から抜粋したものです。感謝の気持ちを表すために次回はこの中から一品作りたいと思います。

(※翻訳の都合上ズッキーニとなっているが、ズッキーニはアメリカ大陸原産の植物の為、古代ローマには無い。これはククルビタという食用ヒョウタンの一種)

博物学者プリニウス(1)その生涯について

プリニウス古代ローマ博物学者です。
ヤマザキ・マリさんとり・みきさんの漫画の主人公としても取り上げられているのでご存じの方も多いかもしれません。

彼の残した全37巻からなる『博物誌』は古代ローマの歴史や科学、人々の考え方を知る上でとても貴重な資料です。このブログでも古代ローマの食材に関して調べる際の貴重な参考文献として何度も引用しています。

しかし、プリニウス本人に関しては意外と記録が少ないのです。
今回は限られた資料の中からプリニウスの生涯と個性的な生活ぶりを紹介し、愛すべき変人ともいえる、その人物像に迫ってみたいと思います。

プリニウスの肖像

プリニウス古代ローマ博物学者です。
生涯独身だったプリニウスは妹の息子を養子にして後継ぎとしております。この甥の小プリニウスと区別するために大プリニウスと呼ばれることもありますが、この動画では単にプリニウスと呼ぶことにします。

プリニウス肖像画はどれも後世に描かれたものなので、本当の姿はわかりません。
ネット検索で出てくるこの肖像画は現在アメリカ議会図書館に収蔵されているものです。

プリニウス(画像:wikipediaより)

このような肖像画もあります。甥の小プリニウスの記録によると“彼は体が大きい人だったので寝息が重く響いていた”とありますから、こちらの肖像画の方が似ているかもしれません。

プリニウス(『プリニウスの博物誌』雄山閣より)

プリニウスの出身地とされる北イタリアのコモ市の教会にはこのような大プリニウスの像があります。ずいぶん美形ですね。ここには甥の小プリニウスの像もあります。

(左)大プリニウス (右)小プリニウス(画像:wikimedia commonsより)

その他、中世の写本では数々のプリニウス肖像画が描かれてきました。

様々なプリニウス肖像画(いずれもwikimedia commonsより)

プリニウスの生涯

年代に沿ってプリニウスの生涯を追っていきましょう。

プリニウスは紀元23年もしくは24年、北イタリアのコムム(現・イタリア・コモ市)で生まれました。家は騎士身分に属しており、裕福であったとされています。家族は両親の他に妹(もしくは姉)が一人おりました。

プリニウスの幼少期に関しては記録が残っておらず、はっきりしたことはわかっていません。しかし、若いころローマに出て文法や修辞学から哲学、文学、植物学などを幅広く勉強したのではないかといわれています。

その後一時期弁護士として働いたのち軍務についたようです。
軍務についていた時期も資料が残っていないためはっきりとわかりませんが、紀元47年から57年頃まで騎兵士官としてゲルマニア戦線にいたことは諸説が一致しています。

この頃に著作
『馬上からの投げ槍について(1巻)』
『ポンポニウス・セクンドゥスの生涯(2巻)』
ゲルマニア戦記(20巻)』などを著したといわれています。

紀元57年頃、プリニウスは軍務を終えます。この頃は皇帝ネロの政治が狂暴化していく時代でした。
プリニウスは公職を回避して引退生活を送りつつ著作
『学生(3巻)』
『疑わしい言葉(8巻)』などを書いていたのではないかといわれています。

やがてネロの治世が終わり激動の四皇帝の年ののち、ウェスパシアヌスが皇帝に即位するとプリニウスは公職に復帰し重用されるようになりました。
紀元71年~75年頃までいくつかの地方で皇帝代官という要職についていたそうです。
ヒスパニア・タラコネンシス(北スペイン)とシリアにいたことはほぼ確実視されています。他にアフリカや南フランス(ガリア・ナルボネンシス)やベルギー(ガリア・ベルギカ)などにいたという説もあります。

この頃に政務の側ら
『アウフィディウス・バッススの歴史書の続き(全31巻)』を執筆し、
『博物誌』の執筆にとりかかったといわれています。

その後、プリニウスナポリ湾ミセヌムでローマ艦隊の艦隊長に就任しました。
『博物誌(37巻)』は77年に完成し、皇帝ティトゥスに贈られました。

プリニウスの著作は全部で102巻に及びますが、そのほとんどが長い歴史の中で失われてしましました。しかし『博物誌』37巻は何度も写本が作られ、中世ヨーロッパでは権威ある科学書として大きな影響を残したといわれています。

ウェスウィウス山の噴火とプリニウスの最期

紀元79年、プリニウスはローマ軍の艦隊の指揮官としてミセヌムに駐屯していました。
プリニウスの妹と甥の小プリニウスも一緒に住んでいたようです。

8月24日の午後12時~1時頃の事です。

読書をしていたプリニウスに妹が大きさも形も異様な雲があると知らせました。その雲はまるでイタリアカサマツという松の木のような形をしていました。煙はまるで幹のように高く立ち上り、その上が枝葉のように分かれていたそうです。高いところから確認すると、噴火したのがウェスウィウス山(現ヴェスヴィオ山)ということが分かりました。

1822年のヴェスヴィオ山の噴火を描いた図。79年の噴火も似たような状態だったと考えられている。(画像:wikipediaより)

プリニウスは最初好奇心から視察のために早い船を用意するように命じました。しかしすぐに考えを変え、友人やその他多くの人を助けるためにローマ軍の四段櫂船を出港させてウェスウィウス山に向かうことにしました。
もちろん、船の中にも記録係を同行させ、観察したそのままを書きとらせ、みずからもこの自然現象を描写するメモをとりました。

しかし、船が現場に近づくにつれ大量の熱い火山灰が降り、軽石や炎で焼け焦げた石なども降ってくるようになりました。さらに海岸は火山からの噴出物で塞がれており、目的地に上陸できませんでした。

部下の一人が引き返すことを進言しましたがプリニウスは拒否し、目的地を変えてポンポニアヌスという友人の元へ向かうことにしました。そこはちょうど湾の反対側だったので風に乗って船を岸につけることができました。

プリニウスは上陸すると恐怖におののいていた友人を抱擁し、励ましました。
ポンポニアヌスの恐怖を鎮めるために自分は陽気に振る舞うことにしたようです。平静さをみせるために、なんとお風呂に入ることにしました。
入浴後は上機嫌で夕食をとりました。あるいは上機嫌であることを装っていたのかもしれません。
ウェスウィウス山からは何度も幅の広い炎と背の高い火柱があがりましたが、プリニウスは「あれは農夫が残していった焚火だ」とか「空き家が燃えているだけだ」などと繰り返し言いました。
それから彼は休息をとりました。しっかり深く眠ったらしく、大きな寝息が部屋の外まで響いていたそうです。

そうこうしているうちにポンポニアヌスの家は軽石で埋まり始め、さらに振動で今にも倒壊しそうになりましたので、一行は海岸へと非難しました。
海は荒れており、船を出すのは危険な状態でした。
夜明けの時間帯だというのに空は暗闇です。
息苦しさからプリニウスは布の上に横たわり何度も水を求めたそうです。
やがて炎と硫黄の匂いが迫ってくると他の人々は逃げ出しました。プリニウスも避難しようと二人の奴隷に寄りかかって立ち上がりましたが、突然崩れ落ちるように倒れ、それが彼の最期でした。

もとから気管が弱かったプリニウスは濃い火山ガスに呼吸を妨げられ、窒息したのではないかといわれています。

プリニウスがミセヌムから出港して三日目、彼の身体は完全で無傷なままで発見されましたが、その姿は眠っているようだったそうです。

以上は甥の小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙の中に記されていた内容から抜粋したものです。まるで現場を見てきたような臨場感あふれる文章ですが、それは伯父プリニウスの最期をしっかりと詳細に伝えた者がいたのでしょう。小プリニウスは母親と一緒にミセヌムに残っていました。噴火に伴う度重なる地震から避難し、こちらもかなり危険な目に合っていたようです。

プリニウスの書簡は短くて読みやすく、もちろん日本語に訳されています。この動画より原文を読んで頂いた方が一層臨場感が伝わると思いますので、機会があれば読んでみて下さい。