にゃこめしの食材博物記

YouTubeチャンネル「古代ローマ食堂へようこそ」の中の人のブログ。古代ローマの食文化についての記事を中心に、様々な歴史や食文化について調べて書いているブログです。

ソラマメのウィテリウス風【再現!古代ローマ皇帝の料理】

どうも、にゃこめしです。
前回の記事では古代ローマの皇帝ウィテリウスの大食いエピソードをご紹介しました。

現代まで伝わる古代ローマのレシピ集『アピキウスの料理書』にはウィテリウスの名を冠した料理が3つ伝わっています。今回はそのうちの一つ、豆を使った料理を作って再現し、試食してみたいと思います。

なお、アピキウスの料理書には材料の分量も、詳しい調理手順も書かれていません。料理人によって少しづつ再現される料理が変わってきます。ご了承下さい。

アピーキウス・古代ローマの料理書(三省堂)より

エンドウ豆、又はソラマメのレシピということですが、今回はソラマメが手に入ったのでソラマメで作ろうと思います。

材料と手に入りにくい材料の代用品

  • ソラ豆 鞘から外した状態で300g、冷凍ソラマメでも良い
  • オリーブ油 大さじ4
  • 固ゆで卵の黄身2つ
  • セロリの葉 5g
  • ショウガ5g
  • しょっつる 大さじ1
  • ワイン 大さじ1
  • ワインビネガー 大さじ1
  • 蜂蜜 15g
  • 胡椒 少々

参考文献の中で、手に入りにくい材料はよく似た食材で代用しています。
ラヴィッジ(ラベージ)は別名、山のセロリと呼ばれるセロリとよく似た芳香と旨味を持つセリ科のハーブです。今回はセロリの葉5gで代用します。
リクァーメンは魚醤です。今回は秋田県しょっつるで代用しています。ナンプラーや蜂蜜は3ウンキアとなぜかこれだけ分量が明記されているのですが、他の材料の分量は書かれていないので、今回は無視して15g用意しました。いしるなど別の魚醤でも代用可能です。

作り方

  1. 薄皮を剥きやすいようにソラマメのお尻の部分に切れ目を入れておきます。

  2. 沸騰したお湯に塩小さじ一杯を溶かし、ソラマメを入れて5分ゆでます。
    普通に食べる時は2~3分で引き上げたほうが歯触りが良くて美味しいのですが、今回は潰して使うので少し長めにゆでます。
  3. 茹で上がったらザルに引き上げ、薄皮を剥いていきます。先程包丁で切れ目を入れておいたので、端をキュッと押さえるだけで簡単に中身が出てきます。

  4. 皮を剥いたソラマメをすりつぶします。今回はフードプロセッサーを使っていますが、すり鉢を使ってもできます。

    固めのソラマメピューレができました。ソラマメを一旦置いておいて、ソース作りに取りかかりましょう。
  5. ソラマメとオリーブオイル以外の材料すべてをミキサーに入れ、滑らかになるまで攪拌します。

  6. 5を小鍋に移し、オリーブ油を加え弱火で加熱しながら、よく混ぜ合わせます。
    ソースの出来上がりです。

  7. お皿にソラマメペーストを盛り付け、ソースと一緒に盛り付けます。
    文献には詳しい調理手順は記されていないため、ソースはかけたのか混ぜたのかは不明です。今回はソラマメペーストにかける形で盛り付けました。
  8. お好みで蜂蜜(分量外)をトッピングして完成です。

味の感想

ソースの味は、とても親しみを覚える味です。何かに似ている…と考えたのですが、醤油マヨネーズに似ている、と思い当たりました。
そういえば、材料の卵とお酢と油って、マヨネーズの材料でしたね。
ウィテリウスが現在に生きていたら、マヨネーズ大好きだったかもしれません。
しかし、ただの醤油マヨではなくショウガとセロリのオシャレな風味が効いています。

上にかけた蜂蜜はソースともソラマメとも相性がよく、一緒に食べるとコクを加えてくれます。

すりつぶしたソラマメは豆の青い風味が心地良く、ソースともよく合います。ホクホクした食感はジャガイモのようです。

ジャガイモと醤油マヨネーズ…
今回の再現料理は全体的にポテトサラダのような雰囲気になってしまいました。
私の再現した料理が正解かどうかは誰にも分かりませんが、ウィテリウスが現在に生きていたらポテトサラダ大好きオジサンだったかもしれません。

参考文献/
『アピーキウス・古代ローマの料理書』
アピキウス他?著 ミュラ=ヨコタ宣子訳 三省堂

 

皇帝ウィテリウスの大食いエピソード

どうも、にゃこめしです。

今回は古代ローマ8代目の皇帝、ウィテリウスの大食いエピソードの数々を紹介していきたいと思います。


ウィテリウスがどのような人物で、どんな皇帝だったのかなどの歴史的な部分は前回の記事で解説していますので、そちらもご覧下さい。

とにかく食い物のことしか考えない大食漢だとされるウィテリウスは

ウィテリウスは食事は常に三度、ときには四度にもわたって、朝食と昼食と夕食と夜ふけの酒盛りを摂り、いつも嘔吐によってどの食事も難なくこなしていた

と、いわれています。また、

同じ日に、違った人からそれぞれ別の食事に自分を招待させていた

そうです。
普通の人ならもう、食べ物を見るだけでもイヤになりそうですね。
そして、それぞれの食事の費用は40万セステルティウス以上だったと記録されています。当時の一般の兵士の年収が900セステルティウスなので、兵士445人の年収分を一度の宴会で使った事になります。
どれ程豪華な饗宴を企画すればそうなるのでしょうか。

ウィテリウスの為の饗宴のなかでとりわけ豪勢だったのはウィテリウスの弟が開いた饗宴でした。
入念に吟味された二千匹の魚と七千羽の鳥が食卓に供されたと伝えられています。

しかしウィテリウスがこの宴会の差し入れに用意させた大皿料理はもっと凄いものでした。ウィテリウスは桁外れに大きい特別性の大皿を「街の防御者ミネルウァの盾」と呼んび、愛用していたとされています。(画像はメトロポリタン美術館の女神ミネルウァ像)

その大皿には地中海のあちこちからで集められたベラの肝や、キジとクジャクの脳みそ、フラミンゴの舌、ヤツメウナギの白子が混ぜ合わされていた、と伝えられています。
もはや何が何だかわからない状態ですね。せめて混ぜ合わせないでほしいです…。

これだけの食事をとりながら、ウィテリウスはつまみ食いをすることもあったようです。

彼は飽くことを知らぬばかりか、時もわきまえぬ、さも食い意地のはった男であったので犠牲式の最中にすら、ときには旅の途中にも自制できずに、祭壇に供えてある麦粉菓子をその場ですぐとって食べ、あるいはほとんどかまどの上から肉をとったり、道路に面した料亭から周辺に焼く匂いのただよう魚や肉も、あるいは前日の食い余しでも、食べていた

もう、見境がないですね。祭壇の物は食べるとバチがあたりそうですし、お店の商品を勝手に取って食べるのはかなり迷惑です。

ここまでのエピソードは歴史家スエトニウスの『ローマ皇帝伝』に書かれたものです。スエトニウスの残した記述は古代ローマを知る上で大切な資料である一方で、かなりゴシップ的な要素も含まれています。どこまで信用するかは研究者次第なのですが、多少大袈裟に書かれていると思ったほうが良いのかもしれません。

歴史家スエトニウス ニュルンベルグ年代記(1493)に描かれた肖像画

別の歴史家タキトゥスによる記述も見てみましょう。
ウィテリウスは

僅か数ヵ月のうちに九億セステルティウスも浪費したと信じられている

と書かれています。
当時の軍隊全員分の給料が年に約二億セステルティウスだったといわれています。その4.5倍も浪費してしまっています。
この費用には市民のために剣闘士試合や戦車競争を派手に催した費用なども含まれていますが、ウィテリウスの宴会に使われたお金ももちろん含まれていることでしょう。

タキトゥスはこうも書いています。

彼の胃袋は意地汚く飽きることがなかった。都からもイタリアからも味覚を刺激する珍味が調達され、東西両側の海から内陸への街道は荷車の音で喧しかった。町の名士は饗宴の準備で破産した。

ウィテリウスの元へどんどん食材が運ばれる様子が伝わってきますね。
多少誇張された記述かもしれませんが、ウィテリウスの食欲のせいでローマ帝国が異常事態に陥っている様子がうかがえます。

そんな大食い皇帝ウィテリウスの食べた料理はどんなものだったのでしょうか。

古代ローマのレシピ集、アピキウスの『料理書』にはウィテリウスの名前がついた料理のレシピが2つ伝わっています。

一つ目は「子豚のウィテリウス風」。子豚を丸焼きにして魚醤と蜂蜜とハーブのタレをたっぷり染み込ませた料理です。
ウィテリウスのイメージにぴったりですね。

残り二つは意外にも、豆料理です。
次回はこのウィテリウスの豆料理を再現して試食したいと思います。

参考文献/
ローマ皇帝伝』スエトニウス著 国原吉之助訳 岩波文庫
『同時代史』タキトゥス著 国原吉之助訳 筑摩書房
『アピーキウス・古代ローマの料理書』アピキウス他著 ミュラ=ヨコタ宣子訳 三省堂

大食い皇帝ウィテリウスと激動の四皇帝の年【歴史解説】

どうも、にゃこめしです。
今回と次回は古代ローマの皇帝たちの中でもとりわけ大食いエピソードが残っている、ウィテリウスという人物を紹介したいと思います。
今回は食べ物の話ではなく歴史解説になりますが、ウィテリウスという人物を理解するうえで知っておいた方が面白いのでご覧いただければ嬉しいです。

ウィテリウスの基本情報

ウィテリウスこの人物は古代ローマ帝国の八代目の皇帝です。
彼の治世はわずか8カ月。歴史家たちの彼に対する評価は次のようなものでした。
「大食漢」「食い物のことしか考えない奴」「食い意地のはった男」
そんな食いしん坊なだけの人物がなぜ皇帝になったのでしょうか。


アウルス・ウィテリウス。
名前の表記はウィテッリウスやヴィテリウスと表記されることもありますが、この記事ではウィテリウスの表記で統一したいと思います。
ウィテリウスは紀元15年に生まれました。
彼の父親はとても優秀な政治家であり、3度も執政官の役職に就いた人物でした。
ウィテリウス自身も順調に出世していき、アフリカ属州の総督の役職に就きました。
まさに順風満帆な人生といえます。
しかし紀元68年、皇帝ネロの死によって古代ローマの激動の時代が幕を開けると、
ウィテリウスの人生も争いの渦中に飲み込まれていくのです。

ネロの最期

帝政ローマ5代目の皇帝ネロの治世の後半、このころのローマはまさに内憂外患の時代でした。

ローマで大火事が起こり、甚大な被害を出しました。
ネロはその跡地にドムス・アウレア(黄金宮殿)という巨大な建造物を立てるのです。人々は街に火を放ったのは皇帝自身ではないかと噂しました。
同じ頃ユダヤ属州ではユダヤ人たちが大規模な反乱を起こします。
戦争によりローマ市内では穀物が不足。民衆が待ち望んだ穀物船がエジプトから到着したと思いきや、船にはネロが競技場を作るための砂が満載されていたのでした。
ネロは親族や側近達を理由をつけては処刑しており、優秀な人物はすでにネロの元を離れてしまっていました。

そんな状況の中、ついにローマ帝国の西側の軍隊がクーデターを起こしました。
ガリア(現在のフランス)、ルシタニア(現在のポルトガル)、ヒスパニア(スペイン)の軍隊はガルバという人物を皇帝に推挙し、ネロのいるローマへと攻め込みました。
元老院はネロを「国家の敵」であると宣言。
追い詰められたネロは自ら命を絶ちました。

ユリウス・カエサルから初代皇帝アウグストゥスを経て、5代目まで続いたユリウス・クラウディウス朝はネロの死によって終焉を迎えたのでした。

ガルバとオト

元老院はガルバを新たな皇帝に承認しました。


しかし、ガルバは新しい皇帝が即位する時に兵士に配ることが慣習になっていた恩賞金を配らなかったのです。
ガルバは即位して早々に兵士や市民から嫌われる存在となりました。
自らの不人気から危険をを感じ取ったガルバはまず手始めに、ウィテリウスをローマの北東の国境を守るゲルマニア軍団の司令官に任命しました。
ゲルマニア軍団は人数も多く強い兵士たちが配備された軍団です。ゲルマニア軍団に反旗を翻されては困る、というわけです。
しかし、その軍団の司令官として大食漢で無能なウィテリウスを送り込むことによって、ゲルマニア軍団の力を抑えようとしたのです。ちなみにこの目論見は見事に外れます。
次にガルバは、市民達からも兵士達からも人気のある、ピソという優秀な人物を後継者に指名しました。

ところが、この決定に不満を持つ人物がいました。
これまでガルバと共に戦ってきたオトという人物です。


彼は自分こそがガルバの後継者であり、次の皇帝であると信じていました。
そこでオトは賄賂を渡したり、恩賞金を約束する事で兵士達を味方につけ、クーデターを起こしました。ガルバと後継者のピソは無残にも殺され、ガルバの首は槍の上につけられ晒されたのでした。
皇帝就任からわずか8ヶ月の治世でした。

さて同じ頃、ゲルマニア軍の駐屯地では兵士達がガルバに対する忠誠を拒否し、ウィテリウスを代わりの皇帝候補として擁立しました。
頭の固いガルバより、扱いやすい人物であるウィテリウスを皇帝にした方が軍団にとっては都合が良い、というわけです。
そこでゲルマニア軍はウィテリウスを帝位に就けるべく、ローマに向かって進軍を始めます。

途中でガルバが殺害され、オトが皇帝になったという知らせが届きます。しかしウィテリウスを担ぎ上げたゲルマニア軍団はそのまま進軍し、ついに迎え撃つオトの軍隊との戦いが始まります。
両軍は北イタリアのパドゥス川(現在のポー川)付近で激しくぶつかり合いました。
最初はオト軍が優勢だったものの、次第にウィテリウス軍が盛り返し、勝利します。
オトはローマ市民同士が互いに争うこの戦いを憂い、これ以上の犠牲を望まない、と短剣で胸を一突きして自ら命を絶ったのでした。わずか3ヶ月の治世でした。

皇帝になったウィテリウス

さて、皇帝としてローマに入ったウィテリウスでしたが、兵士達の都合で突然担ぎ上げられただけの皇帝だったので当然、政治に関する信念も計画もありません。
彼は周りの人の意見に流され、コロコロと態度を変える、という具合でした。

ローマの街はウィテリウスが引き連れてきた軍隊の兵士達で溢れ、一気に治安や衛生状態が悪くなりました。兵士達は訓練もせず都市のあらゆる快楽に溺れ統率もとれない状況となります。

皇帝の権力を利用したい人々は贅沢な宴会や高価な珍味でウィテリウスの飽くことなき食道楽を満足させることを競い合うのでした。
ウィテリウスは毎日食べては飲み、飲んでは食べ、怠惰な日々を送ります。
しかし、このような状況も長くは続かないのでした。

ウェスパシアヌスとウィテリウスの最期

ローマの東方ユダヤ属州で、反乱の平定のためにこの地に派遣されていたウェスパシアヌスという人物が立ち上がります。

ウェスパシアヌスは自らが率いていた三個軍団に加え、シュリア属州やエジプト属州を味方につけ、軍隊をローマに向かわせました。
どんどん攻め込んでくるウェスパシアヌス軍に対してウィテリウスのとった行動はというと…

…寝て食べて現実逃避する事でした。歴史家タキトゥスはその様子を

餌を与えられたら横になったまま、のっそりしている怠け者の獣のようであった

と書いています。
ウィテリウス派の軍隊は各地でウェスパシアヌス派に寝返り、ついにローマの都は占領されました。

ウィテリウスの最期は悲惨なものでした。
ウィテリウスは後ろ手に縛られ、着物を裂かれ、ローマの中央広場へと引き立てられました。顔を伏せる事ができないように顎には刃物を突き立てられたといいます。
道中では市民達が嘲笑や侮蔑を浴びせたり、物を投げつけたりしました。

ローマの通りを引き回されるウィテリウス ジョルジュ・ロシュグロス作1883年

最期にゲモニアの階段と呼ばれる処刑場で、ウィテリウスはたくさんの傷を受けてなぶり殺しにされました。

歴史家タキトゥスはウィテリウスの悲惨な最期を記し、その後に

しかし彼は生来飾り気のない、気前の良い人だった

とも書いています。
激動の時代の渦に飲み込まれたウィテリウス。時代や立場が違えばただの食いしん坊オジサンとして、もっと幸せな人生を送れたかもしれませんね。

その後はウェスパシアヌスが皇帝となり、ローマの内戦は終わりを告げます。
ガルバ、オト、ウィテリウス、ウェスパシアヌス、と四人の皇帝が即位した激動の年、紀元69年は「四皇帝の年」と呼ばれています。

参考文献/
『同時代史』タキトゥス著 国原吉之助訳 筑摩書房
年代記タキトゥス著 国原吉之助訳 岩波文庫
ローマ皇帝伝』スエトニウス著 国原吉之助訳 岩波文庫

 

古代ローマの謎の調味料リクァーメン

リクァーメンという調味料は古代ローマの食文化の記録において欠かせない存在です。古代ローマのレシピ集アピキウスの『料理書』でも、日本料理のお醤油のように味の基礎となる調味料として使われています。

写真:ポンペイから出土したガルムやリクァーメンを保存していたアンフォラ

しかし、リクァーメンの製造方法については一次資料が乏しく、リクァーメンが何者であったかについては、研究者の間でも見解に差があるようなのです。

以前このブログで紹介したガルムという古代ローマの魚醤があるのですが、リクァーメンもガルムと同じく魚醤である、とする見解が主流なようです。しかし、違うとしている文献もあるのです。

普段私は情報の信頼性を高めたいと、複数の文献を参考にしているのですが、リクァーメンに関しての記述はそれぞれ少しづつニュアンスが違いました。

それらを比較して考えてみたいと思います。 

ガルムとリクァーメンは同じものだとする本
古代ローマの食卓』

ギリシア語でガルム、ラテン語でリクァーメンだとする本、
『アピーキウス古代ローマの料理書』

両者を区別せず、どちらも「魚醤」と書いてある本。
『シーザーの晩餐』

ガルムはアンチョビーソースのようなものでリクァーメンは塩水に若干の風味をつけたものだとする本
古代ローマの饗宴』

リクァーメンをだし汁(Broth)だとする本。
『Cookly 』

手元にある本だけでも、実に様々です。
しかし、やはりガルムとリクァーメンはほぼ同じものだとする文献のほうが多いようです。

アピキウスの『料理書』ではリクァーメンは主に塩味をつけるために使われており、塩とリクァーメンの両方を使うレシピはわずかしかありません。

お醤油文化圏の日本人にとっては特に違和感がないように感じますが、
風味と塩味のバランスとしては、やや塩味に重きを置いた調味料だったのかもしれません。

写真:参考文献の一部

即席ガルム―文献に基づいて古代ローマの調味料を再現

どうも、にゃこめしです。
古代ローマの調味料、ガルムやアレック、リクァーメンに関する記事をいくつか投稿してきました。
しかし、ガルムの製造方法は分かっているものの、作って試してみるわけにはいきません。
理論上は大丈夫なハズですが、衛生的な設備も、安全管理も、品質検査もできない状況で個人が作ったものは食中毒のリスクが高すぎます。
そこで今回はキチンとした文献資料に基づきつつも、個人でも安全に作れそうな古代ローマの即席ガルムを再現してみたいと思います。

10世紀のビザンツ帝国、皇帝コンスタンティノス7世の時代に編纂された『ゲオポニケ』という農業書があります。
ここには古代ローマ古代ギリシアの農業に関する知識が集められており、
その中にはなんと、家庭で作ってすぐに使える即席ガルム(又は即席リクァーメン)の作り方も書かれているのです。
その内容とは、こうです。

海水に卵一個を投げ入れて浮かんでくるかどうかを試し、塩分の強さを見る。
沈むようであれば塩分が足りない証拠である。新しい素焼きの土器にこの塩水と魚を入れ、オレガノを加え、よくおこった火にかけて沸騰させ、煮詰まってくるまで煮続ける。ここに濃縮ブドウ酒をいれる人もある。冷ましてから、汁が済んでくるまで二、三度濾し、封をして貯蔵する。

これなら火を通すので食中毒の心配はなさそうです。
早速試してみました。

材料

水500ml、塩150gくらい、イワシ200g、オレガノ(乾燥)10g

まずは、水500mlに塩を10gずつ足していき、どこで卵が浮くのかを試してみました。
古代の卵は今より小さかったハズなので、なるべく小さい、Mサイズのものを用意しました。
鍋に水500mlを入れ、どんどん塩を足していきますが、なかなか卵は浮きません。
途中で塩が溶けにくくなってきたので、水を少し温めながら溶かしました。
水500mlに対して塩を150g溶かしたところで、卵が浮くようになりました。
ちょっと見えにくいですが、卵が浮いている様子がおわかり頂けるでしょうか?

少し大きめの鍋に先程の塩水を入れ、イワシ200gとオレガノ10gを加えて、火にかけます。

沸騰したら弱火にして、そのまま20分程煮詰めていきます。
ものすごい量の塩が鍋肌にくっつきます。
20分経ったところで、ザルの上にキッチンペーパーを敷き、鍋の中身を濾していきましょう。

カメラが曇って、不鮮明な写真になって申し訳ありません…
イワシと一緒にすごい量の塩が濾し取られてしまいました。
先ほどあんなに塩を足したのに、なんだかもったいない気分です。
あれ程までに濃い塩水を作る必要性があったのかは謎ですが、なるべく塩分を濃く保つことで保存性を高めているのかもしれません。
濾した後の即席ガルムは粗熱を取った後、清潔な瓶などに入れて冷蔵庫で保管し、なるべく早く使い切りましょう。

さて、即席ガルムの味ですが、かなり塩味が強いです。
強すぎる塩分に押され気味ですが、イワシの旨味もほのかに感じられます。
オレガノイワシの生臭さを消して、すっきりとした風味を付け加えてくれます。
しかし、即席ならではの欠点もありました。
ゆっくり熟成発酵させた魚醤のような複雑かつ濃厚な旨味はありません。
前回の記事で様々な魚醤の味の感想をグラフにしましたが、この即席ガルムの味の印象をそのグラフに落とし込むとすると、この辺りでしょうか?

グラフからはみ出てしまいました。 

熟成発酵させていないので旨味の元となるアミノ酸発生させる工程がないため、塩分とのバランスが悪く、ちょっと塩味がキツすぎる印象です。
古代ローマの料理を試してみたい場合、やはりしょっつるやコラトゥーラなどの魚醤を買ってきたほうが、美味しく出来上がります。

興味のある方は、ぜひ試してみて下さい。(魚醤を買った方が美味しいですが…(笑))

 

様々な魚醤の味と感想をまとめて比較してみた

どうも、にゃこめしです。

私は魚醤の味比べをするのが好きでして、魚醤を見つけるとすぐに購入してしまいます。

今回は、コレクションを整理しつつ、味の印象を紹介していきたいと思います。

よしる
産地:石川県能登半島
原材料:イワシ
どっしりとした深みのある味わいです。塩分は魚醤の中では控えめ。f:id:nyakomeshi:20230612031837j:image
いしる
産地:石川県能登半島
原材料:イカ
深みと重みのある味わいで、イカの風味が突出しています。大根の煮物や炊き込みご飯に使います。あと、個人的には人参の炒め物に使うのがおすすめです。

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サバのいしる
産地:石川県能登半島
原材料:サバ
いしるはイワシイカで作られたものが多く、サバは珍しいです。
風味が強すぎず色も濃くならないので薄口醤油のように使えます。

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メギスのいしる
産地:石川県能登半島
原材料:メギス
メギス独特の白身の旨味が魅力的。焼き魚のような香ばしいさが感じられます。
イワシのいしるよりも軽やかな味わいで、塩味が引き立っています。f:id:nyakomeshi:20230612131652j:image

しょっつる
産地:秋田県
原材料:ハタハタ
突き抜けるような塩味と旨味の効いた、はっきりした味わい

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鮭の魚醤
産地:新潟県村上市
原材料:サケ・脱脂加工大豆・小麦
鮭と一緒に大豆や小麦もつかわれており、魚醤とお醤油のハーフのような存在です。
酸味の効いた薄口しょうゆのような味わいの中に、鮭の旨味が溶け込んでいます。
新潟県村上市は鮭供養をおこなうことでも知られる地域なので思い入れがあります。

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コラトゥーラ
産地:イタリアシチリア州
原材料:カタクチイワシ
しょっつるに似た塩気とサッパリした旨味。明るく、華やかな風味。アンチョビーソースの代わりにピザやパスタにも合います
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ナンプラー
産地:タイ
原材料:イワシ
甘さやアミノ酸が足されている商品が多く、親しみやすい味わいです。メーカーや商品によっていろいろなナンプラーがありますが、この商品はだし醤油やめんつゆのような万能調味料といった側面が強いかも。f:id:nyakomeshi:20230612032242j:image

ヌクマム
産地:ベトナム
原材料:海水魚
翻訳アプリなどを駆使して原材料を調べたのですが、やはり海水魚としか書かれておらず、詳細はわかりません。パッケージのイラストはサバに見えます。
塩味も魚の風味もかなり強め。タイのナンプラーとは違い、ヌクマムはシンプルな調味料という印象のものが多い気がします。f:id:nyakomeshi:20230612032607j:image

最後に、魚醤の味の印象をグラフにまとめてみました。
味の基準として定番のお醤油であるキッコーマン濃口醤油をグラフの基準値にしています。私は関西人なので大好きなヒガシマルの薄口醤油も同じくグラフに書き入れてます。

ちなみに、魚醤は基本的にお醤油より塩分濃度が高めとなります。

縦軸が塩味の強さ、横軸は旨味や風味の強さです。なお、これは測定した数値ではなく、完全に個人の感想になりますのでご了承下さい。



アレック―古代ローマの珍味・塩辛

古代ローマの調味料であるガルム(魚醤)を作った際の副産物として、濾しとった後の滓が残ります。

それがアレックです。

博物学プリニウスはアレックについてはこう述べています。

アレックはガルムの滓だ。まるまるのものでもなく濾されたものでもない滓だ。
これはまた他に用いどころのない小さい魚によって作ることが始まった。
中略
それからアレックは一種の贅沢品になった。そして無数の種類がつくられるようになった。
中略
かくしてアレックはカキ、ウニ、イソギンチャク、ボラの肝臓などでつくられ、あらゆる口に適するような塩が無数の方法で腐らされるようになった。
文化人の贅沢な味覚にはこれら付随的な記述で十分としなければならない。

アレックは最初はガルムの副産物的な位置付けだったものの、いつしかアレックそのものを味わうようになったことが伺えるような記述です。美食家達は様々な食材で作られた珍味を求めたのでしょう。

(もちろん、庶民のための安いアレックもありました。そちらはあいかわらず、ガルムの副産物という位置づけ)

アレックは魚介類と塩を混ぜ合わせ、熟成発酵させるという製造方法から、日本の塩辛のようなものであったといわれています。
美食家アピキウスはヒメジの肝でアレックを作るのが特に望ましい、と述べました。

なんだか日本酒に合いそうですね…

プリニウスはアレックは医療にも若干の用途があり、このような時に使われたと記しています。

  • ヒツジに疥癬ができたとき
  • イヌやウミヘビに噛まれたとき
  • ワニに咬まれたとき
  • 拡大する悪臭のある潰瘍
  • 口または耳の潰瘍
  • 赤痢、腸の腫瘍、坐骨神経痛
  • 慢性腹部疾患に注入される…(注入?)

もちろんこれらは古代の民間療法であり、現代医学の視点から見ればおかしなものばかりです。効果がないどころか場合によっては症状を悪化させそうなものも含まれていますので、絶対に実践しないで下さい。

それにしても、お尻にアレックを注入…

下の写真は私の持っている中で、最もアレックに近そうな食材。ベトナムの魚の塩辛で、イエローフィンバルブというコイの仲間の小魚が使われています。

参考文献/
プリニウスの博物誌
中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣