にゃこめしの食材博物記

YouTubeチャンネル「古代ローマ食堂へようこそ」の中の人のブログ。古代ローマの食文化についての記事を中心に、様々な歴史や食文化について調べて書いているブログです。

古代ローマの飲食店

古代ローマの街には気軽に食事をとることができる飲食店がたくさんありました。
気軽に軽食をとる事のできる店、バール。ちょうど現在の居酒屋のようなタベルナ。これらの店の遺構は、現在ではギリシア語由来のテルモポリウムと言う言葉で呼ばれる事もあります。

石造りのカウンターにあいている穴には、甕や大鍋をはめ込んで使います。
こうすることで保温性を高め、暖かい料理は温かいまま、冷たい料理は冷たいまま提供できました。
電気もガスも無い時代なのに、本当に洗練されています。

ポンペイのこの遺構では容器から豚肉や魚、カタツムリや牛肉などの成分が検出されました。なかなか栄養満点で美味しそうですね。
カウンターの絵は、メニューの内容を示すと考えられています。鶏やアヒルの料理もあったのかもしれませんね。

宿屋兼食堂のような店はポピーナといいます。ちなみにポピーナでは食事やお酒の提供の他に賭博や売春が行われることもありました。

少し品位は下がるとされたものの、たっぷり食べる事ができるレストランのような店はグルグスティウムと呼ばれました。
さらに下品とされた、ガーネアという暴飲暴食するための店というのもありました。

ローマ人といえば、寝そべって食べる食事風景を思い浮かべる人が多いカモしれません。しかし実は、古代ローマの人々も普段は椅子とテーブルを使い、座って食事をしていました。寝そべって食べるのは正式な饗宴の席のみです。
ローマの飲食店も、大抵はテーブル席がメインです。ちょっと改まった雰囲気の店なら横になって食事をするスペースを持つ店もありました。
上品な市民や貴族達が食事をする場所はトリクリニウムやケーナーティオーと呼ばれ、食事の為の寝台が準備されており、美しい庭園や池が作られていました。
日本の飲食店に例えるとホテルの宴会場かお座敷のある高級料亭のような感じでしょうか。

 

古代ローマの質素な昼食

古代ローマの人々は午前中に仕事を済ませ、午後は軽く昼食をとった後、少し昼寝をしたり、広場や公共浴場などで過ごす、という生活パターンの人が多かったようです。

朝食と同じように、昼食もまた軽く済ませるのが普通でした。
というのも、古代ローマでは一日の中で一番重要な食事は夕食で、朝食や昼食は夕食までもたせる為の軽食という意味合いが強かったようです。

夕食はケーナと呼ばれていました。
ちなみに朝食はイエンタクルム、昼食はプランディウムです。
(遅めの朝食もプランディウムと呼ばれることがあった)

古い時代には一番重要な食事であるケーナはちょうど昼食の時間帯にとったとされています。しかし、時代と共にケーナは3時から4時頃の夕食の時間帯になったといわれています。
さて、簡単な昼食、プランディウムでよく食べられていた食事はどんなものだったのでしょうか。
朝食の習慣についてかいた記事でもご紹介した『学童の一日』という資料の続きを引用してみましょう。

(前略)先生は昼食のためにぼくたちを解放しました。
解放された後で、ぼくは家に帰りました。
ぼくは着物を替え、白いパンをいくらかと、オリーブと、チーズと、干しイチジクと、木の実を食べました。
ぼくは冷たい水を飲みました。
昼食の後で、ぼくは学校に戻りました。

質素な昼食をとる様子が分かります。
昼食には他にも豆のスープや麦のお粥、卵料理、干しブドウなどがよく食べられていました。人によっては肉料理や魚料理を食べることもありました。

また、家で質素な食事をとる他に、古代ローマの街中には手軽に食事をとれる飲食店が多数存在していました。
昼食を外食で済ませる人も多かったようです。

次回の記事では古代ローマの飲食店について紹介していきたいと思います。


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古代ローマの朝の挨拶とスポルトゥラについて

ローマ市民の朝の日課はパトロヌスに朝の挨拶に行く事でした。

パトロヌスとは保護者と訳されますが、親分といったほうが分かりやすいかもしれません。古代ローマでは貴族などお金と権力を持っている人が平民達の生活を援助し、面倒を見ていました。
その代わりにクリエンティスと呼ばれる被保護者、つまり子分にあたる人達は選挙の際に自分のパトロヌスを援護したり、必要に応じて外出の際にお供したりとパトロヌスに対して忠誠を示さなくてはなりません。
このパトロヌスとクリエンティスの関係は古代ローマの社会構造の中で重要な要素となっていました。

さて、クリエンティスは毎朝パトロヌスに対する忠誠を示すため、朝の挨拶に向かいます。すると、パトロヌスからは贈り物を受け取ることができました。
スポルトゥラといわれるその贈り物は小さな籠にパンや果物、ワインやチーズなどが詰め合わされたものでした。
クリエンティスは無料の食事にありつくことができたのです。

スポルトゥラはそのまま朝食に食べても良いし、持って帰ったり、家族と分けることもできました。
また、街頭で売ったり交換してもよかったそうです。

スポルトゥラの想像図

古代ローマの庶民のくらし―朝食について

古代ローマの朝は早く、夜明けと同時に人々が動き出します。
というのも電気のない時代、照明の為の油も安くはないため人々は夜は早めに眠りにつきました。
奴隷達は夜明け前から起きて仕事を始めるのでした。
そんな古代ローマの庶民の朝ごはんはどんなものかというと…

朝ごはんは食べない、もしくは昨日の残り物やパンで軽く済ませるのが普通でした。
古代ローマの朝の習慣を研究する際に、よく用いられる資料に「学童の一日」について記した教科書のよう文章があります。
よい子の模範的な生活が綴られたものです。ちょっと引用してみましょう。

“ぼくは夜明け前に目を覚まします。ぼくはベッドから起きます。
ベッドに腰掛けて、靴下と靴をはきます。
ぼくは顔を洗うために水を持って来させます。ぼくはまず両手を洗い、それから顔を洗いました。手ぬぐいでふいて乾かしました。
ねまきを脱ぎました。それからトゥニカ(下着)をつけました。ベルトをしめました。髪に油をつけて、櫛をいれました。
両肩にスカーフを巻きつけました。その上から白い外套を着、さらにその上に雨降り用のマントを羽織りました。
教育係の奴隷と乳母を従えて寝室を出、父と母に挨拶に行きました。ぼくは二人に挨拶し、口づけをしました。それから家を出ました。
ぼくは学校に行きました。ぼくは学校に着くと、「先生、こんにちは」と言いました。(以下略)”

朝ごはんを食べずに学校へいく様子がわかります。
しかし、それではお腹が空きそうですね。

実は、朝ごはんに食べる蜂蜜入りの菓子パンや揚げパンのようなものを売る屋台が街中のあちこちにありました。子どもたちや肉体労働をする人々など、朝ごはんを食べないとお昼までもたない人は、屋台で軽食を買い食いする事も多かったようです。

ポンペイの通りと蜂蜜菓子を売る屋台の想像図

庶民に比べて貴族たちは朝に何を食べるか、たくさん食べるのか、などの選択肢がありました。人によっては朝から豪華な食事をとることもありました。

しかし、朝ごはんをたくさん食べる事はあまりお上品な事とはされなかったようです。ローマ帝国の6代目の皇帝となったガルバという人物は、贅沢な食事をするタイプではなかったものの、朝ごはんはしっかり食べる派だったらしく、

“彼は大食漢であったと伝えられている。冬の季節には夜明け前にも食事をとる慣わしであった”

とわざわざ書かれています。
ローマ帝国8代目の皇帝ウィテリウスは朝から饗宴でご馳走ざんまいでした。
現在の感覚でもちょっと食べすぎな感じがしますが、古代ローマの庶民の感覚からすれば、批判を集めて当然だったのかもしれません。

その後ウィテリウスは悲惨な最期を迎えたのですが、それに関しては過去の記事に書きましたので、こちらも読んでもらえると嬉しいです。

ソラマメのウィテリウス風【再現!古代ローマ皇帝の料理】

どうも、にゃこめしです。
前回の記事では古代ローマの皇帝ウィテリウスの大食いエピソードをご紹介しました。

現代まで伝わる古代ローマのレシピ集『アピキウスの料理書』にはウィテリウスの名を冠した料理が3つ伝わっています。今回はそのうちの一つ、豆を使った料理を作って再現し、試食してみたいと思います。

なお、アピキウスの料理書には材料の分量も、詳しい調理手順も書かれていません。料理人によって少しづつ再現される料理が変わってきます。ご了承下さい。

アピーキウス・古代ローマの料理書(三省堂)より

エンドウ豆、又はソラマメのレシピということですが、今回はソラマメが手に入ったのでソラマメで作ろうと思います。

材料と手に入りにくい材料の代用品

  • ソラ豆 鞘から外した状態で300g、冷凍ソラマメでも良い
  • オリーブ油 大さじ4
  • 固ゆで卵の黄身2つ
  • セロリの葉 5g
  • ショウガ5g
  • しょっつる 大さじ1
  • ワイン 大さじ1
  • ワインビネガー 大さじ1
  • 蜂蜜 15g
  • 胡椒 少々

参考文献の中で、手に入りにくい材料はよく似た食材で代用しています。
ラヴィッジ(ラベージ)は別名、山のセロリと呼ばれるセロリとよく似た芳香と旨味を持つセリ科のハーブです。今回はセロリの葉5gで代用します。
リクァーメンは魚醤です。今回は秋田県しょっつるで代用しています。ナンプラーや蜂蜜は3ウンキアとなぜかこれだけ分量が明記されているのですが、他の材料の分量は書かれていないので、今回は無視して15g用意しました。いしるなど別の魚醤でも代用可能です。

作り方

  1. 薄皮を剥きやすいようにソラマメのお尻の部分に切れ目を入れておきます。

  2. 沸騰したお湯に塩小さじ一杯を溶かし、ソラマメを入れて5分ゆでます。
    普通に食べる時は2~3分で引き上げたほうが歯触りが良くて美味しいのですが、今回は潰して使うので少し長めにゆでます。
  3. 茹で上がったらザルに引き上げ、薄皮を剥いていきます。先程包丁で切れ目を入れておいたので、端をキュッと押さえるだけで簡単に中身が出てきます。

  4. 皮を剥いたソラマメをすりつぶします。今回はフードプロセッサーを使っていますが、すり鉢を使ってもできます。

    固めのソラマメピューレができました。ソラマメを一旦置いておいて、ソース作りに取りかかりましょう。
  5. ソラマメとオリーブオイル以外の材料すべてをミキサーに入れ、滑らかになるまで攪拌します。

  6. 5を小鍋に移し、オリーブ油を加え弱火で加熱しながら、よく混ぜ合わせます。
    ソースの出来上がりです。

  7. お皿にソラマメペーストを盛り付け、ソースと一緒に盛り付けます。
    文献には詳しい調理手順は記されていないため、ソースはかけたのか混ぜたのかは不明です。今回はソラマメペーストにかける形で盛り付けました。
  8. お好みで蜂蜜(分量外)をトッピングして完成です。

味の感想

ソースの味は、とても親しみを覚える味です。何かに似ている…と考えたのですが、醤油マヨネーズに似ている、と思い当たりました。
そういえば、材料の卵とお酢と油って、マヨネーズの材料でしたね。
ウィテリウスが現在に生きていたら、マヨネーズ大好きだったかもしれません。
しかし、ただの醤油マヨではなくショウガとセロリのオシャレな風味が効いています。

上にかけた蜂蜜はソースともソラマメとも相性がよく、一緒に食べるとコクを加えてくれます。

すりつぶしたソラマメは豆の青い風味が心地良く、ソースともよく合います。ホクホクした食感はジャガイモのようです。

ジャガイモと醤油マヨネーズ…
今回の再現料理は全体的にポテトサラダのような雰囲気になってしまいました。
私の再現した料理が正解かどうかは誰にも分かりませんが、ウィテリウスが現在に生きていたらポテトサラダ大好きオジサンだったかもしれません。

参考文献/
『アピーキウス・古代ローマの料理書』
アピキウス他?著 ミュラ=ヨコタ宣子訳 三省堂

 

皇帝ウィテリウスの大食いエピソード

どうも、にゃこめしです。

今回は古代ローマ8代目の皇帝、ウィテリウスの大食いエピソードの数々を紹介していきたいと思います。


ウィテリウスがどのような人物で、どんな皇帝だったのかなどの歴史的な部分は前回の記事で解説していますので、そちらもご覧下さい。

とにかく食い物のことしか考えない大食漢だとされるウィテリウスは

ウィテリウスは食事は常に三度、ときには四度にもわたって、朝食と昼食と夕食と夜ふけの酒盛りを摂り、いつも嘔吐によってどの食事も難なくこなしていた

と、いわれています。また、

同じ日に、違った人からそれぞれ別の食事に自分を招待させていた

そうです。
普通の人ならもう、食べ物を見るだけでもイヤになりそうですね。
そして、それぞれの食事の費用は40万セステルティウス以上だったと記録されています。当時の一般の兵士の年収が900セステルティウスなので、兵士445人の年収分を一度の宴会で使った事になります。
どれ程豪華な饗宴を企画すればそうなるのでしょうか。

ウィテリウスの為の饗宴のなかでとりわけ豪勢だったのはウィテリウスの弟が開いた饗宴でした。
入念に吟味された二千匹の魚と七千羽の鳥が食卓に供されたと伝えられています。

しかしウィテリウスがこの宴会の差し入れに用意させた大皿料理はもっと凄いものでした。ウィテリウスは桁外れに大きい特別性の大皿を「街の防御者ミネルウァの盾」と呼んび、愛用していたとされています。(画像はメトロポリタン美術館の女神ミネルウァ像)

その大皿には地中海のあちこちからで集められたベラの肝や、キジとクジャクの脳みそ、フラミンゴの舌、ヤツメウナギの白子が混ぜ合わされていた、と伝えられています。
もはや何が何だかわからない状態ですね。せめて混ぜ合わせないでほしいです…。

これだけの食事をとりながら、ウィテリウスはつまみ食いをすることもあったようです。

彼は飽くことを知らぬばかりか、時もわきまえぬ、さも食い意地のはった男であったので犠牲式の最中にすら、ときには旅の途中にも自制できずに、祭壇に供えてある麦粉菓子をその場ですぐとって食べ、あるいはほとんどかまどの上から肉をとったり、道路に面した料亭から周辺に焼く匂いのただよう魚や肉も、あるいは前日の食い余しでも、食べていた

もう、見境がないですね。祭壇の物は食べるとバチがあたりそうですし、お店の商品を勝手に取って食べるのはかなり迷惑です。

ここまでのエピソードは歴史家スエトニウスの『ローマ皇帝伝』に書かれたものです。スエトニウスの残した記述は古代ローマを知る上で大切な資料である一方で、かなりゴシップ的な要素も含まれています。どこまで信用するかは研究者次第なのですが、多少大袈裟に書かれていると思ったほうが良いのかもしれません。

歴史家スエトニウス ニュルンベルグ年代記(1493)に描かれた肖像画

別の歴史家タキトゥスによる記述も見てみましょう。
ウィテリウスは

僅か数ヵ月のうちに九億セステルティウスも浪費したと信じられている

と書かれています。
当時の軍隊全員分の給料が年に約二億セステルティウスだったといわれています。その4.5倍も浪費してしまっています。
この費用には市民のために剣闘士試合や戦車競争を派手に催した費用なども含まれていますが、ウィテリウスの宴会に使われたお金ももちろん含まれていることでしょう。

タキトゥスはこうも書いています。

彼の胃袋は意地汚く飽きることがなかった。都からもイタリアからも味覚を刺激する珍味が調達され、東西両側の海から内陸への街道は荷車の音で喧しかった。町の名士は饗宴の準備で破産した。

ウィテリウスの元へどんどん食材が運ばれる様子が伝わってきますね。
多少誇張された記述かもしれませんが、ウィテリウスの食欲のせいでローマ帝国が異常事態に陥っている様子がうかがえます。

そんな大食い皇帝ウィテリウスの食べた料理はどんなものだったのでしょうか。

古代ローマのレシピ集、アピキウスの『料理書』にはウィテリウスの名前がついた料理のレシピが2つ伝わっています。

一つ目は「子豚のウィテリウス風」。子豚を丸焼きにして魚醤と蜂蜜とハーブのタレをたっぷり染み込ませた料理です。
ウィテリウスのイメージにぴったりですね。

残り二つは意外にも、豆料理です。
次回はこのウィテリウスの豆料理を再現して試食したいと思います。

参考文献/
ローマ皇帝伝』スエトニウス著 国原吉之助訳 岩波文庫
『同時代史』タキトゥス著 国原吉之助訳 筑摩書房
『アピーキウス・古代ローマの料理書』アピキウス他著 ミュラ=ヨコタ宣子訳 三省堂

大食い皇帝ウィテリウスと激動の四皇帝の年【歴史解説】

どうも、にゃこめしです。
今回と次回は古代ローマの皇帝たちの中でもとりわけ大食いエピソードが残っている、ウィテリウスという人物を紹介したいと思います。
今回は食べ物の話ではなく歴史解説になりますが、ウィテリウスという人物を理解するうえで知っておいた方が面白いのでご覧いただければ嬉しいです。

ウィテリウスの基本情報

ウィテリウスこの人物は古代ローマ帝国の八代目の皇帝です。
彼の治世はわずか8カ月。歴史家たちの彼に対する評価は次のようなものでした。
「大食漢」「食い物のことしか考えない奴」「食い意地のはった男」
そんな食いしん坊なだけの人物がなぜ皇帝になったのでしょうか。


アウルス・ウィテリウス。
名前の表記はウィテッリウスやヴィテリウスと表記されることもありますが、この記事ではウィテリウスの表記で統一したいと思います。
ウィテリウスは紀元15年に生まれました。
彼の父親はとても優秀な政治家であり、3度も執政官の役職に就いた人物でした。
ウィテリウス自身も順調に出世していき、アフリカ属州の総督の役職に就きました。
まさに順風満帆な人生といえます。
しかし紀元68年、皇帝ネロの死によって古代ローマの激動の時代が幕を開けると、
ウィテリウスの人生も争いの渦中に飲み込まれていくのです。

ネロの最期

帝政ローマ5代目の皇帝ネロの治世の後半、このころのローマはまさに内憂外患の時代でした。

ローマで大火事が起こり、甚大な被害を出しました。
ネロはその跡地にドムス・アウレア(黄金宮殿)という巨大な建造物を立てるのです。人々は街に火を放ったのは皇帝自身ではないかと噂しました。
同じ頃ユダヤ属州ではユダヤ人たちが大規模な反乱を起こします。
戦争によりローマ市内では穀物が不足。民衆が待ち望んだ穀物船がエジプトから到着したと思いきや、船にはネロが競技場を作るための砂が満載されていたのでした。
ネロは親族や側近達を理由をつけては処刑しており、優秀な人物はすでにネロの元を離れてしまっていました。

そんな状況の中、ついにローマ帝国の西側の軍隊がクーデターを起こしました。
ガリア(現在のフランス)、ルシタニア(現在のポルトガル)、ヒスパニア(スペイン)の軍隊はガルバという人物を皇帝に推挙し、ネロのいるローマへと攻め込みました。
元老院はネロを「国家の敵」であると宣言。
追い詰められたネロは自ら命を絶ちました。

ユリウス・カエサルから初代皇帝アウグストゥスを経て、5代目まで続いたユリウス・クラウディウス朝はネロの死によって終焉を迎えたのでした。

ガルバとオト

元老院はガルバを新たな皇帝に承認しました。


しかし、ガルバは新しい皇帝が即位する時に兵士に配ることが慣習になっていた恩賞金を配らなかったのです。
ガルバは即位して早々に兵士や市民から嫌われる存在となりました。
自らの不人気から危険をを感じ取ったガルバはまず手始めに、ウィテリウスをローマの北東の国境を守るゲルマニア軍団の司令官に任命しました。
ゲルマニア軍団は人数も多く強い兵士たちが配備された軍団です。ゲルマニア軍団に反旗を翻されては困る、というわけです。
しかし、その軍団の司令官として大食漢で無能なウィテリウスを送り込むことによって、ゲルマニア軍団の力を抑えようとしたのです。ちなみにこの目論見は見事に外れます。
次にガルバは、市民達からも兵士達からも人気のある、ピソという優秀な人物を後継者に指名しました。

ところが、この決定に不満を持つ人物がいました。
これまでガルバと共に戦ってきたオトという人物です。


彼は自分こそがガルバの後継者であり、次の皇帝であると信じていました。
そこでオトは賄賂を渡したり、恩賞金を約束する事で兵士達を味方につけ、クーデターを起こしました。ガルバと後継者のピソは無残にも殺され、ガルバの首は槍の上につけられ晒されたのでした。
皇帝就任からわずか8ヶ月の治世でした。

さて同じ頃、ゲルマニア軍の駐屯地では兵士達がガルバに対する忠誠を拒否し、ウィテリウスを代わりの皇帝候補として擁立しました。
頭の固いガルバより、扱いやすい人物であるウィテリウスを皇帝にした方が軍団にとっては都合が良い、というわけです。
そこでゲルマニア軍はウィテリウスを帝位に就けるべく、ローマに向かって進軍を始めます。

途中でガルバが殺害され、オトが皇帝になったという知らせが届きます。しかしウィテリウスを担ぎ上げたゲルマニア軍団はそのまま進軍し、ついに迎え撃つオトの軍隊との戦いが始まります。
両軍は北イタリアのパドゥス川(現在のポー川)付近で激しくぶつかり合いました。
最初はオト軍が優勢だったものの、次第にウィテリウス軍が盛り返し、勝利します。
オトはローマ市民同士が互いに争うこの戦いを憂い、これ以上の犠牲を望まない、と短剣で胸を一突きして自ら命を絶ったのでした。わずか3ヶ月の治世でした。

皇帝になったウィテリウス

さて、皇帝としてローマに入ったウィテリウスでしたが、兵士達の都合で突然担ぎ上げられただけの皇帝だったので当然、政治に関する信念も計画もありません。
彼は周りの人の意見に流され、コロコロと態度を変える、という具合でした。

ローマの街はウィテリウスが引き連れてきた軍隊の兵士達で溢れ、一気に治安や衛生状態が悪くなりました。兵士達は訓練もせず都市のあらゆる快楽に溺れ統率もとれない状況となります。

皇帝の権力を利用したい人々は贅沢な宴会や高価な珍味でウィテリウスの飽くことなき食道楽を満足させることを競い合うのでした。
ウィテリウスは毎日食べては飲み、飲んでは食べ、怠惰な日々を送ります。
しかし、このような状況も長くは続かないのでした。

ウェスパシアヌスとウィテリウスの最期

ローマの東方ユダヤ属州で、反乱の平定のためにこの地に派遣されていたウェスパシアヌスという人物が立ち上がります。

ウェスパシアヌスは自らが率いていた三個軍団に加え、シュリア属州やエジプト属州を味方につけ、軍隊をローマに向かわせました。
どんどん攻め込んでくるウェスパシアヌス軍に対してウィテリウスのとった行動はというと…

…寝て食べて現実逃避する事でした。歴史家タキトゥスはその様子を

餌を与えられたら横になったまま、のっそりしている怠け者の獣のようであった

と書いています。
ウィテリウス派の軍隊は各地でウェスパシアヌス派に寝返り、ついにローマの都は占領されました。

ウィテリウスの最期は悲惨なものでした。
ウィテリウスは後ろ手に縛られ、着物を裂かれ、ローマの中央広場へと引き立てられました。顔を伏せる事ができないように顎には刃物を突き立てられたといいます。
道中では市民達が嘲笑や侮蔑を浴びせたり、物を投げつけたりしました。

ローマの通りを引き回されるウィテリウス ジョルジュ・ロシュグロス作1883年

最期にゲモニアの階段と呼ばれる処刑場で、ウィテリウスはたくさんの傷を受けてなぶり殺しにされました。

歴史家タキトゥスはウィテリウスの悲惨な最期を記し、その後に

しかし彼は生来飾り気のない、気前の良い人だった

とも書いています。
激動の時代の渦に飲み込まれたウィテリウス。時代や立場が違えばただの食いしん坊オジサンとして、もっと幸せな人生を送れたかもしれませんね。

その後はウェスパシアヌスが皇帝となり、ローマの内戦は終わりを告げます。
ガルバ、オト、ウィテリウス、ウェスパシアヌス、と四人の皇帝が即位した激動の年、紀元69年は「四皇帝の年」と呼ばれています。

参考文献/
『同時代史』タキトゥス著 国原吉之助訳 筑摩書房
年代記タキトゥス著 国原吉之助訳 岩波文庫
ローマ皇帝伝』スエトニウス著 国原吉之助訳 岩波文庫