どうも、にゃこめしです。
今回と次回は古代ローマの皇帝たちの中でもとりわけ大食いエピソードが残っている、ウィテリウスという人物を紹介したいと思います。
今回は食べ物の話ではなく歴史解説になりますが、ウィテリウスという人物を理解するうえで知っておいた方が面白いのでご覧いただければ嬉しいです。
ウィテリウスの基本情報
ウィテリウスこの人物は古代ローマ帝国の八代目の皇帝です。
彼の治世はわずか8カ月。歴史家たちの彼に対する評価は次のようなものでした。
「大食漢」「食い物のことしか考えない奴」「食い意地のはった男」
そんな食いしん坊なだけの人物がなぜ皇帝になったのでしょうか。
アウルス・ウィテリウス。
名前の表記はウィテッリウスやヴィテリウスと表記されることもありますが、この記事ではウィテリウスの表記で統一したいと思います。
ウィテリウスは紀元15年に生まれました。
彼の父親はとても優秀な政治家であり、3度も執政官の役職に就いた人物でした。
ウィテリウス自身も順調に出世していき、アフリカ属州の総督の役職に就きました。
まさに順風満帆な人生といえます。
しかし紀元68年、皇帝ネロの死によって古代ローマの激動の時代が幕を開けると、
ウィテリウスの人生も争いの渦中に飲み込まれていくのです。
ネロの最期
帝政ローマ5代目の皇帝ネロの治世の後半、このころのローマはまさに内憂外患の時代でした。
ローマで大火事が起こり、甚大な被害を出しました。
ネロはその跡地にドムス・アウレア(黄金宮殿)という巨大な建造物を立てるのです。人々は街に火を放ったのは皇帝自身ではないかと噂しました。
同じ頃ユダヤ属州ではユダヤ人たちが大規模な反乱を起こします。
戦争によりローマ市内では穀物が不足。民衆が待ち望んだ穀物船がエジプトから到着したと思いきや、船にはネロが競技場を作るための砂が満載されていたのでした。
ネロは親族や側近達を理由をつけては処刑しており、優秀な人物はすでにネロの元を離れてしまっていました。
そんな状況の中、ついにローマ帝国の西側の軍隊がクーデターを起こしました。
ガリア(現在のフランス)、ルシタニア(現在のポルトガル)、ヒスパニア(スペイン)の軍隊はガルバという人物を皇帝に推挙し、ネロのいるローマへと攻め込みました。
元老院はネロを「国家の敵」であると宣言。
追い詰められたネロは自ら命を絶ちました。
ユリウス・カエサルから初代皇帝アウグストゥスを経て、5代目まで続いたユリウス・クラウディウス朝はネロの死によって終焉を迎えたのでした。
ガルバとオト
元老院はガルバを新たな皇帝に承認しました。
しかし、ガルバは新しい皇帝が即位する時に兵士に配ることが慣習になっていた恩賞金を配らなかったのです。
ガルバは即位して早々に兵士や市民から嫌われる存在となりました。
自らの不人気から危険をを感じ取ったガルバはまず手始めに、ウィテリウスをローマの北東の国境を守るゲルマニア軍団の司令官に任命しました。
ゲルマニア軍団は人数も多く強い兵士たちが配備された軍団です。ゲルマニア軍団に反旗を翻されては困る、というわけです。
しかし、その軍団の司令官として大食漢で無能なウィテリウスを送り込むことによって、ゲルマニア軍団の力を抑えようとしたのです。ちなみにこの目論見は見事に外れます。
次にガルバは、市民達からも兵士達からも人気のある、ピソという優秀な人物を後継者に指名しました。
ところが、この決定に不満を持つ人物がいました。
これまでガルバと共に戦ってきたオトという人物です。
彼は自分こそがガルバの後継者であり、次の皇帝であると信じていました。
そこでオトは賄賂を渡したり、恩賞金を約束する事で兵士達を味方につけ、クーデターを起こしました。ガルバと後継者のピソは無残にも殺され、ガルバの首は槍の上につけられ晒されたのでした。
皇帝就任からわずか8ヶ月の治世でした。
さて同じ頃、ゲルマニア軍の駐屯地では兵士達がガルバに対する忠誠を拒否し、ウィテリウスを代わりの皇帝候補として擁立しました。
頭の固いガルバより、扱いやすい人物であるウィテリウスを皇帝にした方が軍団にとっては都合が良い、というわけです。
そこでゲルマニア軍はウィテリウスを帝位に就けるべく、ローマに向かって進軍を始めます。
途中でガルバが殺害され、オトが皇帝になったという知らせが届きます。しかしウィテリウスを担ぎ上げたゲルマニア軍団はそのまま進軍し、ついに迎え撃つオトの軍隊との戦いが始まります。
両軍は北イタリアのパドゥス川(現在のポー川)付近で激しくぶつかり合いました。
最初はオト軍が優勢だったものの、次第にウィテリウス軍が盛り返し、勝利します。
オトはローマ市民同士が互いに争うこの戦いを憂い、これ以上の犠牲を望まない、と短剣で胸を一突きして自ら命を絶ったのでした。わずか3ヶ月の治世でした。
皇帝になったウィテリウス
さて、皇帝としてローマに入ったウィテリウスでしたが、兵士達の都合で突然担ぎ上げられただけの皇帝だったので当然、政治に関する信念も計画もありません。
彼は周りの人の意見に流され、コロコロと態度を変える、という具合でした。
ローマの街はウィテリウスが引き連れてきた軍隊の兵士達で溢れ、一気に治安や衛生状態が悪くなりました。兵士達は訓練もせず都市のあらゆる快楽に溺れ統率もとれない状況となります。
皇帝の権力を利用したい人々は贅沢な宴会や高価な珍味でウィテリウスの飽くことなき食道楽を満足させることを競い合うのでした。
ウィテリウスは毎日食べては飲み、飲んでは食べ、怠惰な日々を送ります。
しかし、このような状況も長くは続かないのでした。
ローマの東方ユダヤ属州で、反乱の平定のためにこの地に派遣されていたウェスパシアヌスという人物が立ち上がります。
ウェスパシアヌスは自らが率いていた三個軍団に加え、シュリア属州やエジプト属州を味方につけ、軍隊をローマに向かわせました。
どんどん攻め込んでくるウェスパシアヌス軍に対してウィテリウスのとった行動はというと…
…寝て食べて現実逃避する事でした。歴史家タキトゥスはその様子を
餌を与えられたら横になったまま、のっそりしている怠け者の獣のようであった
と書いています。
ウィテリウス派の軍隊は各地でウェスパシアヌス派に寝返り、ついにローマの都は占領されました。
ウィテリウスの最期は悲惨なものでした。
ウィテリウスは後ろ手に縛られ、着物を裂かれ、ローマの中央広場へと引き立てられました。顔を伏せる事ができないように顎には刃物を突き立てられたといいます。
道中では市民達が嘲笑や侮蔑を浴びせたり、物を投げつけたりしました。
最期にゲモニアの階段と呼ばれる処刑場で、ウィテリウスはたくさんの傷を受けてなぶり殺しにされました。
歴史家タキトゥスはウィテリウスの悲惨な最期を記し、その後に
しかし彼は生来飾り気のない、気前の良い人だった
とも書いています。
激動の時代の渦に飲み込まれたウィテリウス。時代や立場が違えばただの食いしん坊オジサンとして、もっと幸せな人生を送れたかもしれませんね。
その後はウェスパシアヌスが皇帝となり、ローマの内戦は終わりを告げます。
ガルバ、オト、ウィテリウス、ウェスパシアヌス、と四人の皇帝が即位した激動の年、紀元69年は「四皇帝の年」と呼ばれています。
参考文献/
『同時代史』タキトゥス著 国原吉之助訳 筑摩書房
『年代記』タキトゥス著 国原吉之助訳 岩波文庫
『ローマ皇帝伝』スエトニウス著 国原吉之助訳 岩波文庫