前回、前々回に続き
美味しすぎて刈り尽くされ、1世紀に絶滅したという謎多き植物シルフィウムの話です。シルフィウムにはいろいろな呼び方がありますが、この記事では便宜上植物自体をシルフィウム、その樹脂で作られた薬や調味料をラーセルと呼ぶことにします。
ラーセル、それもキュレナイカ(現在のリビア)産のラーセルは古代ローマ料理の大事な調味料として珍重されました。
いったいどのような味と香りだったのか気になりますよね。
古代ローマの医師で薬学者のディオスコリデス曰く
“キュレナイカ産のものは少量でも味わうと全身の体液を動揺させるし匂いも非常に快いので、少量にしないと、味を見たとき口で呼吸ができなくなる。メディア産とシリア産ものはそれより作用が弱く、匂いも臭い”
だそうです。芸能人の食レポも霞むような凄い表現ですね。
古代ローマの人々は古い時代からラーセルの風味を愛し、様々な料理に使ってきました。
紀元前4世紀頃のギリシアには詩人で美食家のアルケストラトスという人物がいましたが、彼はローマの人々がたくさんラーセルを使うことを皮肉ってこう書き残しています。
“ミレトスの魚には驚くべき風味がある。鱗を取れ。それから丸ごと炙れ。穏やかに炙れ。脂の多いソースはどれも使うな。あなたがこの料理をこしらえている時には、シュラクサイやイタリアのギリシア人は側に来させるな。なぜなら彼らはこのデリケートな料理をどう処方するか知らず、チーズを魚の上に隙も無くかけ、酢とシルフィウムを加えて料理を駄目にしてしまうからだ”
アルケストラトスは素材の味を活かしたシンプルな料理が好みだったのでしょうね。一方でラーセルは様々な材料を混ぜ合わせて複雑な味を作り出す時に効果を発揮したのかもしれません。
しかし、そんな愛されたキュレナイカのシルフィウムも乱獲や放牧による環境破壊で数が減っていき、美食に熱狂した1世紀のローマではもう数が少なく貴重品でした。
その時代、美味しい食材のためなら金に糸目をつけなかった伝説の美食家アピキウスですら、手に入れるのが難しいアイテムだったようです。アピキウスの『料理書』の中にはラーセルを長持ちさせる方法が書かれています。
1ウンキア(27g)のラーセルを長持ちさせる方法
ラーセルを20粒の松の実とともに大きなガラスの壺に入れておく。
ラーセルが必要な時にはいつでも、いくつかの松の実をすり潰して用いると食べ物の風味のよさに驚くだろう。
使った数だけ松の実を壺に戻しておく。
アピキウスの『料理書』は一世紀から四世紀の間に時間をかけて成立していったものだとされています。
キュレナイカ産のラーセルはもうほとんど手に入らなくなっていた為、300種類以上あるレシピの内キュレナイカ産のラーセルについて言及されているのはたったの2箇所だけです。
にもかかわらず、ラーセルを使うレシピはたくさん書かれています。
キュレナイカのラーセルを失ったローマ人たちは属州シリアや隣国パルティアから大量のラーセルを輸入することになりました。
博物学者プリニウスは『博物誌』にシリアやパルティアのラーセルはキュレナイカのものと香りが全く違い、質も劣る物であった、と書き残しています。
しかし、アピキウスの『料理書』のレシピにもラーセルが多用されていることからもわかるとおり、シリア産やパルティア産のラーセルがいかに香りや味が違ったとしてもやはり、なくてはならない調味料という位置づけだったのでしょう。
実は、シリア産やパルティア産のシルフィウムはアサフェティダという植物であることがわかっており、その樹脂は現在でも調味料として使われています。アサフェティダ、またはヒングという名前です。
特にインドではヒングをよく使います。
インドの食文化ではカーストや宗教によって食べられるものが厳格に規定されています。厳格なバラモン階級の人々やジャイナ教徒の人々は菜食主義者であるのはもちろん、野菜の中でも根菜を食べません。
しかし、ニンニクやタマネギを使わないと料理は旨味や風味に欠けるものとなってしまいます。そんな時に活躍するのがヒングです。料理に少し入れると、それだけでコクが出て風味を豊かにしてくれます。豆のカレーなどに入れて使われる事が多いそうです。
ヒングはネットで検索するとその匂いの強さから「悪魔の糞」という言葉で紹介されています。実際に匂いを嗅いだ感想は、確かに強い匂いがするものの、ウンコ系の匂いではなく、ガーリックパウダーとオニオンパウダーを足したような香りです。
ヒングはネット通販などで買うことができるので、ヒングことパルティア産のラーセルで古代ローマ気分を味わってみてはいかがでしょうか?
炒め物や肉料理などに相性が良いので、難しく考えず気軽に使うこともできます。
さて、次回は未だに正体がわかっていないキュレナイカ産のシルフィウムについて、
その正体に迫ります!
参考文献
『アピーキウス・古代ローマの料理書』
ミュラ・ヨコタ=宣子訳 三省堂
『プリニウスの博物誌』
プリニウス著 中野定雄・中野里美・中野美代訳 雄山閣
『薬物誌』
ディオスコリデス著 岸本良彦訳・注 八坂書房
『古代ローマの食卓』
パトリック・ファース著 目羅公和訳 東洋書林
『古代ローマの饗宴』
エウジェニア・サルツァ・プリーナ・リコッティ著 武谷なおみ訳 平凡社
『シーザーの晩餐 西洋古代飲食綺譚』
塚田孝雄著 朝日文庫
『食卓の賢人たち』
アテナイオス著 柳沼重剛訳・編
『ハーブ&スパイス辞典』
伊藤進吾 シャンカール・ノグチ監修 誠文堂新光社